<李承晩ラインと韓国の蛮行>
竹島問題は、日本が主権を回復するサンフランシスコ講和条約発効の3カ月前、1951年1月18日に李承晩韓国大統領が火事場泥棒の如く、海洋主権宣言「李承晩ライン」を一方的に公海上に引いたことから始まる。
このとき、日本政府だけでなく米国、英国、中華民国も韓国に対し抗議したが、韓国は聞く耳を持たなかった。同年2月4日には李承晩ライン周辺で操業していた第一大邦丸が拿捕され、漁労長が射殺される事件が起こった。
その後も、韓国は65年の日韓国交正常化までの13年間に合わせて328隻の日本漁船を拿捕し、3,929人の日本人を抑留した。その間、44人の日本人が死傷している。さらに韓国は53年12月12日、漁業資源保護法を制定し、抑留した日本人船員に対して3年以下の懲役、禁錮または50万ウォン(日本円で500万円)の罰金を科した。損害額は当時の金額で90億円を超えた。
また、抑留した日本人を人質に取り、日韓国交正常化交渉を有利に運ぶための外交カードとして利用した。日本政府は日本人抑留者の返還と引き換えに、『常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日韓国人・朝鮮人472人を収容所より放免して在留特別許可を与える』という屈辱的な要求まで呑まされたのである。
<韓国に毅然と向き合った外交官>
ここで韓国に対して、毅然とした態度で妥協せずに交渉に当たった日本の外交官を紹介したい。
外務省の久保田貫一郎首席代表(当時)は53(昭和28)年10月、第三次日韓会談の場で、韓国が日本に対して戦時賠償と植民地統治の謝罪を求めてきた際、「日韓併合は国際法に則ったもので何ら不都合もない」「だいたい植民地支配と言うが、実際は搾取どころか、逆に日本政府が資金を持ち出す開発型の統治であり、朝鮮人にも恩恵を与えた」「韓国(朝鮮)と戦争もしていないのに賠償をする必要はない」と、明確に主張したのである。
この主張に韓国が腹を立てて第3次日韓会談が決裂するが、日本側はひるむことはなかった。岡崎勝男外務大臣(当時)も「当たり前のことを述べただけ」と韓国側を強く非難している。結局、日韓国交正常化交渉はしばしばお互いの主張が衝突し、中断したが、日本の主張通り韓国が「賠償」と「謝罪」という表現を引っ込め、個人補償を含めた戦後補償の形で決着した。竹島問題の解決は先送りされたが、日韓基本条約が調印され国交正常化が実現したのである。
≪ (前) |
<プロフィール>
濱口 和久 (はまぐち かずひさ)
昭和43年熊本県菊池市生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、民主党本部幹事長室副部長、栃木市首席政策監などを経て、国際地政学研究所研究員、日本政策研究センター研究員、日本文化チャンネル桜「防人の道 今日の自衛隊」キャスター、拓殖大学客員教授を務める。平成16年3月に竹島に本籍を移す。現在は、日本防災士機構認証研修機関の(株)防災士研修センター常務取締役。著書に、『思城居(おもしろい)』(東京コラボ)、『祖国を誇りに思う心』(ハーベスト出版)、「だれが日本の領土を守るのか?」(たちばな出版)。11月25日には、夕刊フジに連載中の企画をまとめた『探訪 日本の名城 上-戦国武将と出会う旅』(青林堂)を発売。公式HPはコチラ。
※記事へのご意見はこちら