<サンフランシスコ講和条約で「竹島」領有は確定>
昭和20(1945)年9月2日の降伏文書への調印により、大東亜戦争での日本の敗戦が決まった。占領統治国であるアメリカは間もなく、「日本の主権は北海道、本州、九州、四国および外辺諸小島に限る」との対日政策を発表した。竹島は、日本により保持される「外辺諸小島」に含まれるか定かではなかった。
さらに、昭和21年1月29日付の連合国最高司令官総司令部(GHQ)の指令第677号で、日本の行政権がおよぶ範囲から、鬱陵島や済州島とともに竹島を除外。日本漁船の操業水域を指定した昭和20年9月27日のいわゆる「マッカーサーライン」に続き、翌21年6月22日付のGHQ指令1033号でも、竹島を線の外に置き、日本の船舶および乗組員に対し、竹島の12海里以内への接近を禁止した。
韓国政府はこれらをもって、連合国が、日本が占領していた小島(竹島も含む)を領土から除外したものだと主張するが、この主張はまったく根拠がない。連合国総司令官に日本の領土を確定する権限はなく、そもそも指令には、「この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第八条にある小島嶼の最終決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない」(第6項)との規定が置かれ、領土の変更とは無関係なのである。
サンフランシスコ講和条約においても、日本が放棄する朝鮮の領域は「済州島、巨文島および鬱陵島を含む朝鮮」と規定された(第2条a)。つまり、竹島は放棄されずに残ったのである。
実は、昭和24年11月までのアメリカ側草案では、日本の朝鮮放棄の範囲は「朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、竹島を含む沖合小島嶼」とされていた。ところが、シーボルト駐日政治顧問のアメリカ国務省に対する「竹島の再考を勧告する。この島に対する日本の領土主張は古く、正当と思われる」との提言がきっかけで、竹島放棄は以後の草案から全て外された。
これに対し、韓国政府は、1951年7月19日付で、改正草案を修正し、竹島を自国領土とするよう要求した。しかし、アメリカ政府は「竹島は1905年頃から島根県隠岐支庁の管轄下にあり、これまで朝鮮の領土として扱われたことは1度もなく、領土主張がなされたとも思わない」として修正要求を拒否した。
ところが、韓国政府はサンフランシスコ講和条約には、竹島を日本領とするという記載がないから、先のGHQの指令が有効だとし、また、「1914年の第1次世界大戦の開始以降、日本が奪取し、または占領した太平洋におけるすべての島を日本から剥奪する」「日本は、暴力および強欲により略取したすべての地域から駆逐される」とした連合国による1943年のカイロ宣言を根拠に、竹島は日本領土ではないと主張した。
竹島は、歴史的にも国際法的にも日本の領土であり、他国から奪取した島ではない。領土の最終決定は講和条約によるのは国際法の約束である。日本の行政管轄権から竹島を除外したGHQの指令第677号も、サンフランシスコ講和条約の発効により失効した。同条約により日本の領土の範囲が確定し、竹島が日本の領土であることも最終的に確定したのである。
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<プロフィール>
濱口 和久 (はまぐち かずひさ)
昭和43年熊本県菊池市生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、民主党本部幹事長室副部長、栃木市首席政策監などを経て、国際地政学研究所研究員、日本政策研究センター研究員、日本文化チャンネル桜「防人の道 今日の自衛隊」キャスター、拓殖大学客員教授を務める。平成16年3月に竹島に本籍を移す。現在は、日本防災士機構認証研修機関の(株)防災士研修センター常務取締役。著書に、『思城居(おもしろい)』(東京コラボ)、『祖国を誇りに思う心』(ハーベスト出版)、「だれが日本の領土を守るのか?」(たちばな出版)。11月25日には、夕刊フジに連載中の企画をまとめた『探訪 日本の名城 上-戦国武将と出会う旅』(青林堂)を発売。公式HPはコチラ。
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