<高島市長、刎頸の友を斬る>
2010年12月、福岡市の広報戦略を強化するために「広報戦略アドバイザー」を設置したが、3月末をもって広報戦略アドバイザーを廃止する方針であることがわかった。設置から3年3カ月間での廃止となる。
この広報戦略アドバイザーには(株)ファクト代表取締役の後山泰一氏が任命されていた。要は福岡市顧問に就いたのである。後山氏にとってこの顧問の肩書には満足していたようだ。
10年11月の福岡市長選で同氏は、立候補した高島陣営の為に孤軍奮闘の活躍をした。20名ほどの若手経営者を結集させて大量の票集めに奔走したのだ。
結果、高島市長が誕生した。最大の当選功労者として報いる目的で後山氏のために「広報戦略アドバイザー」を設けたのである。
それが、高島市長が再選をめざす選挙が行なわれるこの時期にあえて高島市長は刎頚の友・後山泰一氏の首を何故、斬るのか?不可解なり。
<ボンボン育ちから一転、暗雲へ>
後山氏は、1976年福岡県生まれの37歳。食肉加工などを手掛ける日本食品(株)の創業者の一族でもある。泰星中学校・高等学校(現・上智福岡中学校・高等学校)を卒業後、東京の中央大学に入学し、在学中に学生ベンチャーとして企業した。2000年に中央大学を卒業。02年に帰福し、03年にフリーペーパー「アイビジョンプレス」を発刊する(株)アイステーションに入社。ここまではまさしく良家のボンボン育ちを歩いてきた。
とはいえ、ボンボン生活の中でも苦労を知っているのが後山氏だ。
同氏の実父・後山安正氏は1985年5月に日本食品の二代目社長に就任した。ところが不幸なことに実父は98年に不慮の事故で亡くなった。三代目を継いだのが叔父にあたる繁仁氏である。実父の弟にあたる。この叔父から後山泰一氏の家族は蔑ろ扱いを受けた。だから大学後半はボンボン生活を送るわけにはいかなかった。本人は非常に苦労したのである。日本食品は2002年6月末に事実上倒産した。
<再度、注目のポジションを掴む>
(株)アイステ―ションに入社した後に「アイビジョンプレス」の編集長に就任。同紙は、毎号表紙をトップアーティストが飾り、平均10組の話題のアーティストに独自インタビューを実施し、巻末には1カ月分のTVガイドを掲載することを特徴としていた。音楽・TV・映画などのエンターテインメント情報と、タウン情報が一体となった感度の高い男女から支持を受けていた。
後山氏は08年に方向性の違いから(株)アイステーションを退社。この会社は支払い延滞が発生して行き詰った。その後、「アイビジョンプレス」は09年に休刊となっている。退職後は、フリーで活動していたが、09年11月に(株)ファクトを設立。10年に「福岡パルコ」が開業した際は、「福岡パルコみんなの宣伝部」の編集長として同店のPRプロジェクトに携わった。その後、フリーペーパー「BOND」を発刊するほか、広告代理業、コンサル業も行なっていたが、経営は苦しさの一進一退で推移していた。
そして後山氏は起死回生の野望を抱いていたかどうか定かではないが、福岡市長選に立候補した高島宗一郎氏の応援活動を必死で展開した。結果、高島氏が当選したのである。論功行賞で10年12月に福岡市の広報戦略アドバイザーに就任。高島市長とは元々知人に過ぎなかったが、高島氏がKBCを辞め、福岡市長選への出馬表明後、共に選挙を戦ったことから深い絆が生まれたとされる。
就任後は、広報戦略アドバイザーとして、後山氏は記者会見でのフリップ使用や、SNS、公衆無線LAN「Wi-Fi」などを活用した発信力アップなどについてアドバイスを行なっていた。何よりも福岡市顧問の肩書は他人様を魅了するようである。後山氏の周りには他人様が集まりだした
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