昭和20年3月26日、硫黄島の指揮官・栗林忠道中将は生き残った400名余の残存兵の先頭に立ち、最後の総攻撃を敢行した。日本本土への空襲が激化するなか、硫黄島では栗林以下多くの先人たちが命を賭して国土を防衛したことを、私たち日本人は絶対に忘れてはならない。
<米軍が認める指揮官>
栗林忠道ほど日本陸軍のなかで、知略と勇猛果敢さを遺憾なく発揮した指揮官は日本の戦史上例をみないだろう。
米軍は5日間で硫黄島(東京都港区と同じ約20平方キロメートルの広さ)を制圧する予定であった。ところが約1カ月間、栗林が指揮する日本軍守備隊は持ち堪え、米軍に対して戦死傷者2万8,000名あまりの損害を与えたのである。硫黄島の戦いは、大東亜戦争で米軍が反転攻勢に出て以降の戦闘で、戦死傷者が日本軍を上回った唯一の地上戦であった。
この時期、硫黄島は地政学的には、サイパンと東京のほぼ中間に位置し、「太平洋の防波堤たらん」としたサイパンが陥落し絶対国防圏が崩壊したことで、本土防衛の外郭地帯としての戦略的価値を高めていた。米軍は、マリアナ諸島を基地とした日本本土爆撃に向かうB29戦略爆撃機の不時着場として、さらには爆撃を護衛する戦闘機基地として硫黄島を考えていた。
米国では、硫黄島の戦いの報道がリアルタイムでなされていたこともあり、この戦闘の状況と栗林の知名度は非常に高い。とくに戦後、戦史研究家や米軍人に、「太平洋戦争(大東亜戦争)における日本軍人で優秀な指揮官は誰であるか」と質問すると、栗林忠道の名前を挙げる者が多い。
栗林は従来の島嶼防衛における水際作戦という基本方針を退け、長大かつ堅牢な地下陣地を構築する。不用意な万歳突撃などによる玉砕を厳禁し、部下に徹底抗戦を指示した。M4シャーマン中戦車やLVTなどを大量に撃破・擱坐させるといった物的損害を与えることにも成功し、のちに米軍幹部をして「勝者なき戦い」と評価せしめた。
ニミッツ元帥などは「この豆粒大の火山灰の堆積の上に、日本軍は精強な戦闘部隊である陸軍1万4,000名と、海軍陸戦隊7,000名よりなる守備隊をはりつけた。硫黄島防備の総指揮官である栗林忠道中将は、硫黄島を太平洋においてもっとも難攻不落な8平方マイルの島要塞とすることに着手した。この目的を達成するためには地形の全幅利用を措いてほかに求められないことを彼は熟知していた。歴戦剛強をもって鳴る海兵隊の指揮官たちでさえ、空中偵察写真に現れた栗林部隊の周到な準備を一見して舌を巻いた」(『ニミッツの太平洋海戦史』)と記している。
| (後) ≫
<プロフィール>
濱口 和久 (はまぐち かずひさ)
昭和43年熊本県菊池市生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、民主党本部幹事長室副部長、栃木市首席政策監などを経て、国際地政学研究所研究員、日本政策研究センター研究員、日本文化チャンネル桜「防人の道 今日の自衛隊」キャスター、拓殖大学客員教授を務める。平成16年3月に竹島に本籍を移す。現在は、日本防災士機構認証研修機関の(株)防災士研修センター常務取締役。著書に、『思城居(おもしろい)』(東京コラボ)、『祖国を誇りに思う心』(ハーベスト出版)、「だれが日本の領土を守るのか?」(たちばな出版)。11月25日には、夕刊フジに連載中の企画をまとめた『探訪 日本の名城 上-戦国武将と出会う旅』(青林堂)を発売。公式HPはコチラ。
※記事へのご意見はこちら