桜が咲きはじめ、本格的な春の訪れを感じさせる3月末。約70年前のこの頃、我が国を防衛するために硫黄島で決死の闘いを続けていた先人たちがいた。我々日本人は、米軍からも評価される栗林忠道中将を後世に語り継いでいかなければならない。
<米国の力を冷静に分析していた栗林中将>
栗林は明治24 (1891)年7月7日、長野県埴科郡松代町(現・長野市松代町)の士族の家に生まれている。恩師の勧めで陸軍士官学校に進学し、旧制中学出身ながら、陸大軍刀組の騎兵将校としての道を順調に歩んだ。
昭和2(1927)年から米国駐在武官(大使館附)として、昭和6年からはカナダ駐在武官(公使館附)となり、延べ5年間にわたって海外勤務を経験している。日本陸軍の建軍の経緯から、ドイツ派の多い陸軍内では少数派の『知米派』で、国際事情にも明るく、対米開戦にも批判的であったと言われている。
帰国後、騎兵連隊長を経験した栗林は陸軍省馬政課長の時、軍歌「愛馬進軍歌」を一般募集し、選定に携わったりもしている。
<死を覚悟していた栗林中将>
昭和19年5月27日、小笠原方面を守備するため父島要塞守備隊を基幹とする第109師団長となり、6月8日、硫黄島に着任する。同年7月1日には大本営直轄部隊として編成された小笠原兵団長も兼任し、海軍陸戦隊も指揮下におき陸海軍硫黄島守備隊の小笠原方面最高指揮官となる。
昭和20年2月19日、総勢600隻を超える米艦隊と11万2,000名の米兵が群青の海を埋め尽くし、硫黄島に上陸を開始した。日本軍守備隊は上陸した米軍に甚大な損害を与えたものの、3月7日、栗林は最後の戦訓電報を大本営に打電する。
組織的戦闘の最末期となった3月16日午後4時には、玉砕を意味する訣別電報を大本営に打電し、辞世の句「国の為 重きつとめを 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき」を一緒に送っている。翌3月17日、大本営よりその功績が認められ、53歳の若さで陸軍大将に昇進する。これは平時とは異なる戦時ではあるが、日本陸海軍中最年少の大将昇進であった。
3月26日、栗林は生き残った400名余の残存兵の先頭に立って最後の総攻撃を敢行し、戦死を遂げる。総攻撃の際に階級章を外していたため遺体は確認されていない。まさに日本本土の防波堤たらんとして、硫黄島では栗林以下多くの先人たちが命を賭したのである。
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<プロフィール>
濱口 和久 (はまぐち かずひさ)
昭和43年熊本県菊池市生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、民主党本部幹事長室副部長、栃木市首席政策監などを経て、国際地政学研究所研究員、日本政策研究センター研究員、日本文化チャンネル桜「防人の道 今日の自衛隊」キャスター、拓殖大学客員教授を務める。平成16年3月に竹島に本籍を移す。現在は、日本防災士機構認証研修機関の(株)防災士研修センター常務取締役。著書に、『思城居(おもしろい)』(東京コラボ)、『祖国を誇りに思う心』(ハーベスト出版)、「だれが日本の領土を守るのか?」(たちばな出版)。11月25日には、夕刊フジに連載中の企画をまとめた『探訪 日本の名城 上-戦国武将と出会う旅』(青林堂)を発売。公式HPはコチラ。
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