<会社存亡の危機を経験地場有数の企業として成長>
高千穂(株)は1956年に前社長の川井田千穂氏により、家具・建具用製材の販売を目的に設立された。当時は、海外からの原木輸入が始まった頃で、時代背景も良く、業績は順調に推移。65年には新事業のパーティクルボード製造と本社用に1万4,000坪の広大な土地を購入した。
好事魔多し。その巨額投資の後、販売代金の回収でつまずき、多額の不良債権を抱えてしまう。さらにパーティクルボードの生産ラインがうまく稼働しないというアクシデントにも見舞われた。このため、同社の業績はみるみるうちに下落。原木の仕入先問屋は同社との取引を見合わせるようになる。結局、鳴り物入りで始めたパーティクルボード製造工場は、操業開始から約1年半で閉鎖に追い込まれた。
経営の立て直しのため、原木の主力仕入先であった大阪の問屋会社に供給を要請する代わりに、自社株の45%をその問屋に譲渡。しかし、それは諸刃の剣でもあった。役員の送り込みなどの経営介入から始まり、次第に表面化する乗っ取りの意向。力尽きてギブアップか、最後まで闘うか――。
決断に迷う先代に対し現社長の川井田豊氏は、自立の道を選ぶことを説得する。大阪の問屋の専務と交渉し、紆余曲折の末、問屋に譲渡した45%の株式を倍の金額で豊氏が買い戻す。その見返りとして、高千穂が所有する資産の45%に見合う資産を大阪の問屋に超低価格で譲渡することと、年商65億円の営業権を無償譲渡することで合意した。20数億円の手形は、主力銀行から1億8,000万円の長期資金を調達して決済したが、売上は0。残るは糟屋郡宇美町の土地1万4,000坪と借金1億8,000万円となった。ここから、川井田豊氏の大逆転劇が始まる。
本社を現在地に移し、約5年間を家賃収入で凌ぎつつ、抱えていた不良債権の処理を急いだ。同時に子会社にはびこる諸問題を解決し、改善へと導いた。転機となったのは87年。同社の工場内で合板の製造を手がけていた業者が撤退したことがきっかけで、塗装合板事業を譲り受けたのだ。操業当初は採算ベースに乗らなかったが、大阪の小さな商社が話を持ちかけてきたインドネシア産の合板に着目。当時の輸入合板は国産よりも2割ほど安価だったが、品質の問題もあり戦後・数十年間、国内の合板メーカーと親密な取引のあった大手問屋は見向きもしなかった。そこで社内で品質のテストを十分行なったうえで、信頼できる製品と確認。まさに社運をかけての販売であった。
インドネシア合板の品質の保証は弊社が致しますと、ユーザーを説得する戦術を採り、89年から開始した塗装合板事業は、同業者の懸念をよそに大きく拡大していく。現在はマレーシア産の合板を本船単位で直輸入して、自社考案の完全自動化ラインで塗装合板を生産。塗装合板の販売において、九州最大のシェアを誇る。
川井田豊氏が経験した、逆境のなかで培われた『先見の明』が会社復活に結び付き、見事に再生を果たしたと言えるだろう。
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<COMPANY INFORMATION>
代 表:川井田 豊
所在地:福岡県粕屋郡宇美町大字宇美3351-3
設 立:1957年3月
資本金:6,100万円
TEL:092-933-2664
URL:http://takachiho-japan.com/
<プロフィール>
川井田 豊(かわいだ・ゆたか)
慶応大学卒業後、高千穂(株)入社。1992年代表取締役社長に就任。
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