主権を放棄した場合は異なるが、たかだか一度戦争に負けたぐらいで、日本の存続の基盤を懺悔に置く必要はまったくない。当時の国際環境を眺めた時、戦勝国が持っていた植民地はもともと侵略によって奪ったものである。戦勝国こそ植民地の人々に隷従や専制を強いていたはずである。
<軍隊なきところに国家なし>
第2次世界大戦後もこの地球上では局地的な戦争が何度も発生した。そのほとんどが、戦勝国が何らかの形で絡んだ戦争である。平和を愛する諸国民のほうが日本よりもはるかに戦争が好きな国家(米・英・ソ・中・仏)なのである。
日本では、日本国憲法は前文よりも、常に第9条が話題となるが、第9条は第1項の「平和主義」と、第2項の陸海空3軍の保有を禁止する「戦力の不保持」から構成されている。第1項は不戦条約規定と同じであるから、自衛権を放棄したものではないことは当然である。一方、第2項の陸海空3軍の保有の禁止は、国防軍の否定を意味し、国民が国を守る崇高な義務の精神を否定していることになる。
同時に、国防軍の否定とは日本が国家として存立することを禁止することと同義である。そうなれば国家が存在しないわけであり、本来ならば日本国憲法も存在しないはずだ。また根源的には、自衛権を否定する憲法は、憲法自身を否定する権力に対して自らを守ることを放棄していることを意味している。
憲法が自らを守るのは自然権である。どのような法律によっても個人の正当防衛権を否定できないのと同様に、自衛権は憲法によっても否定することのできない自然権なのである。自衛権が自然権であることは、国連憲章第51条でも明確に規定されており、国際的に広く認められている。一般に軍隊を持つ行政組織を国家と定義しているのであり、軍隊がなければ定義として国家でなく、何らかの意味で植民地か保護国になる。すなわち、自衛権がないことは、主権が外国にあることを意味しているのである。
日本はサンフランシスコ講和条約で個別的・集団的自衛権が認められた時点で、第九条を改正するべきであった。そうすれば、その時点から日本は戦勝国の米国と対等な安全保障上の関係を築くことが出来たのである。
第2項は普段の私たちの日常生活にたとえるならば、「私は危険人物なので刃物を与えないで下さい」と自ら宣言しているようなものであり、主権国家として情けない話だ。日本は軍事力を持っていても、十分に制御できることを憲法上で宣言し、集団的自衛権の行使も可能とする憲法を作るべきである。その際、単に日本国憲法の改正ではなく、日本国憲法を破棄して新たに自主憲法を起草することが、日本人1人ひとりに国を守る意識を目覚めさせることになるだろう。
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<プロフィール>
濱口 和久 (はまぐち かずひさ)
昭和43年熊本県菊池市生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、民主党本部幹事長室副部長、栃木市首席政策監などを経て、国際地政学研究所研究員、日本政策研究センター研究員、日本文化チャンネル桜「防人の道 今日の自衛隊」キャスター、拓殖大学客員教授を務める。平成16年3月に竹島に本籍を移す。現在は、日本防災士機構認証研修機関の(株)防災士研修センター常務取締役。著書に、『思城居(おもしろい)』(東京コラボ)、『祖国を誇りに思う心』(ハーベスト出版)、「だれが日本の領土を守るのか?」(たちばな出版)。11月25日には、夕刊フジに連載中の企画をまとめた『探訪 日本の名城 上-戦国武将と出会う旅』(青林堂)を発売。公式HPはコチラ。
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