韓国の大型旅客船「セウォル号」の沈没事故から約1カ月が過ぎた。今回の事故では修学旅行中の高校生などが犠牲となった。本来であれば、乗組員は乗客の退避誘導をする責任があるにもかかわらず、船長はじめ乗組員が先に船から脱出するという行為におよんだ。民間の船と軍艦(潜水艦)とでは、船長(艦長)や乗組員の任務に対する意識は違うかもしれないが、同じ海での仕事であり、今回、紹介する佐久間艇の乗組員の行動は「海の男」の模範と言えるだろう。
<最後まで任務を全うした乗組員>
明治43(1910)年4月15日、山口県新湊沖で海軍6号潜水艇(全長22メートル・世界最小)が潜航訓練中に事故を起こし沈没した。佐久間勉艇長(海軍大尉)以下乗組員13名は、潜水艇を浮上させようと排水などの手段を尽くしたが、やがて乗組員全員が呼吸困難のため窒息死するという痛ましい事故となった。
日本海軍が最初に潜水艇を保有したのは日露戦争が終わった明治38年からだ。この頃の潜水艇は、構造的にも不備なところが多く、技術的にも未熟な点があり、当時、外国海軍でもたびたび事故が起きていた。引き揚げられた潜水艇の扉を開けると、そこには多くの乗組員の遺体が群がって、脱出を我先にと争った醜態のあとが繰り広げられており、海軍関係者の間では佐久間艇も同じような光景であろうと想像されていた。
ところが、引き揚げられた佐久間艇の艇内の光景はそれとは180度異なっていた。ハッチを開けると、死を前にして取り乱した様子はなく、佐久間艇長は司令塔で指揮をとったまま息絶え、機関中尉は電動機の前に、機関兵曹は機関の前に、舵手は操舵席に就いたまま乗組員全員がすべて各自の部署を守って息絶えていたのである。
潜水艇から収容された佐久間艇長の軍服からは遺書が発見された。沈没後は艇内の電気は消え、酸素も刻々消費され、絶望のなかで佐久間艇長は遺書を書き記している。その遺書には、まず潜水艇を沈め部下を死なせたことを詫び、部下が最期まで冷静沈着に任務を遂行したこと。また、この事故が将来、潜水艇の発展の妨げにならないこと、さらに沈没の原因とその後の処置について書き、最後に明治天皇に対し部下の遺族の生活が困窮しないように懇請していた。
死の恐怖と向き合いながら、取り乱さないばかりか、後世のためにこうした遺書を書き記したことはまさに驚嘆するほかない。
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<プロフィール>
濱口 和久 (はまぐち かずひさ)
昭和43年熊本県菊池市生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、民主党本部幹事長室副部長、栃木市首席政策監などを経て、国際地政学研究所研究員、日本政策研究センター研究員、日本文化チャンネル桜「防人の道 今日の自衛隊」キャスター、拓殖大学客員教授を務める。平成16年3月に竹島に本籍を移す。現在は、日本防災士機構認証研修機関の(株)防災士研修センター常務取締役。著書に、『思城居(おもしろい)』(東京コラボ)、『祖国を誇りに思う心』(ハーベスト出版)、「だれが日本の領土を守るのか?」(たちばな出版)。11月25日には、夕刊フジに連載中の企画をまとめた『探訪 日本の名城 上-戦国武将と出会う旅』(青林堂)を発売。公式HPはコチラ。
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