「マンション60年」という記事(朝日新聞 平成26年2月27日など)を読み返してみた。日本住宅公団(現・UR都市機構)が誕生したのが昭和30年。その4年前に制定された「公営住宅法」では、「行政区をまたがっての建設は不可能」という制約があった。経済の復興とそれにともなう住宅不足を解消するにはまとまった土地を取得するしかない。そこで「行政区域には無関係に建設を可能にする」を法的に整備し、誕生したのが前出の日本住宅公団である。大阪・千里、東京・多摩など各地にニュータウンが生まれた。そのニュータウンが軒並みオールドタウン化し、問題を投げかけている。
5月17日(土)に、市長をお招きしてわたしが主宰する「サロン幸福亭オープン記念パーティ」を開いた。UR賃貸住宅の空き店舗を賃借したコミュニティ施設である。正式な開亭は厳冬期。しかし高齢者が多く集う居場所だから、記念パーティは暖かくなってからになった。そのことは別の機会に詳報する。
「サロン幸福亭」のあるUR賃貸住宅に住む70歳代の女性が、部屋替えを希望してURに申し込んだところ、示された部屋数がたったの3部屋だったという。「もう少し見せてほしい」という声に、「このなかから選んでください」とにべもない返事に憤慨したと語ってくれた。
そういえば一昨年秋、東京都足立区にあるUR団地の1階に設けられた「ころつえシニア相談所」を取材したときのことだ。「ころつえ」とは"転ばぬ先の杖"を縮めたもので、高齢者が抱えるあらゆる問題について相談に乗る施設である。施設を構える団地の住民数を尋ねたとき、UR公表の数字と足立区の数字に誤差が出た。URの数字の方が足立区よりも多い。住民数を増やすことで、部屋の稼働率を上げたいという思惑が見え隠れした。
都心を少し離れたUR賃貸物件に空き室が目立つ。新しく建て替えられた賃貸物件は賃貸料の高さから若い人たちに敬遠される。したがって入居者の多くは高額年金受給者となり、平均年齢が65歳を超す都会の「限界集落(団地)」もでてきたという笑えない話もある。
日本住宅公団(現・UR)誕生からほぼ60年が経つ。多摩ニュータウンは、多摩市、八王子市、稲城市、町田市という行政区域をまたがって計画された。昭和40年のことである。6年後の昭和46年3月、最初に諏訪・永山地区で入居が開始された。高額所得者向けだった民間のマンションが、中間所得者層でも購入できるマンションとしてブームを呼んだのも、多摩ニュータウン竣工のあたりからである。人も羨む「団地族」の誕生である。
あれから40年、建築基準法の耐震基準は、昭和53年に起きた宮城県沖地震をきっかけとして昭和56年に見直された。震度6強~7程度の地震にも倒壊・崩壊しない耐震性が求められた。しかし、それ以前に建てられた物件が平成25年で106万戸あり、建て替えや改修工事の見込みのないまま放置されている。
耐震基準を満たしていない集合住宅について、「国土交通省の調査では区分所有者の半数が『永住するつもり』と答え、古いマンションほど住民の高齢化も進んでいる。国は建て替え円滑化法などで建て替えを後押しするが、費用負担の難しさや区分所有者の意見の不一致が壁となり、具体的に検討する管理組合は少ないのが実情だ。同省の推計では、あと17年で100万戸が『築50年超』となる時代を迎える」(「朝日新聞」平成26年2月27日)とある。
拙著『団地が死んでいく』(平凡社新書)のなかで、築36年の永山4丁目団地に住む80歳の男性と、81歳の女性を取材している。ふたりとも若い夫婦が街にあふれ、賑やかだったことを懐かしんだ。とくに81歳の女性の棟は4階建ての低層階でエレベータがなく、2リットルのペットボトルを入れたレジ袋が左手の手首に食い込み、腫れあがっていたのを覚えている。家族は京王(小田急)多摩センター駅前に建つ新築のマンションに移った。「一緒に住むようにいわれるけど、わたしはここがいい」と屈託のない笑い顔で応えてくれた。取材から7年後、彼女はまだあの階段を上ることができるのだろうか。
<プロフィール>
大山眞人(おおやま まひと)
1944年山形市生まれ。早大卒。出版社勤務ののち、ノンフィクション作家。主な著作に、『S病院老人病棟の仲間たち』『取締役宝くじ部長』(文藝春秋)『老いてこそ二人で生きたい』『夢のある「終の棲家」を作りたい』(大和書房)『退学者ゼロ高校 須郷昌徳の「これが教育たい!」』(河出書房新社)『克って勝つー田村亮子を育てた男』(自由現代社)『取締役総務部長 奈良坂龍平』(讀賣新聞社)『悪徳商法』(文春新書)『団地が死んでいく』(平凡社新書)『騙されたがる人たち』(近著・講談社)など。
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