先日、久しぶりに東京・九段の靖国神社を訪れ、特攻隊員の遺書を読みながら、特攻の生みの親と言われる大西瀧治郎海軍中将の生き方と武士道について、あらためて考えた。
<特攻隊の背景>
特攻隊の生みの親、大西瀧治郎海軍中将ほど言われなき批判を受けている軍人はいないだろう。大西は特攻隊という外道の作戦を指揮し、多くの前途有為な日本の青年の命を奪ったとして、「暴将」の誹りを受けている。しかし、特攻隊は狂気の作戦でもなければ、大西が極悪非道の指揮官だったわけではない。
特攻隊が人の道に外れていることを誰よりも知っていたのは大西本人で、部下に「特攻なんてものは統率の外道だよ」と語っていたという記録が残っている。大西は明治24(1891)年6月2日、兵庫県氷上郡芦田村(青垣町を経て現在は丹波市)の農家に生まれた。幼い頃から日露戦争の軍神・広瀬武夫に憧れ海軍を志し、中学卒業後、海軍兵学校へ入学する。同期生には宇垣纏や山口多聞などがいる。
連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将に非常に信頼されていた大西は、第11航空艦隊参謀長(少将)であった昭和16(1941)年1月下旬、山本から「ハワイを航空攻撃できないか」という腹案を示され、基本計画作成の依頼を受けた。そして大西が源田実中佐らと協力して作成した真珠湾攻撃計画を元にして昭和16年12月8日の真珠湾攻撃が実行されたのである。
その後、なぜ、大西は特攻隊を発案することになったのか。戦局が悪化するなか、大西は昭和19年、第1航空艦隊司令官としてフィリピン・マニラに着任した。現地の保有機はたった100機で、戦闘機はわずか30機しかなかった。このとき、大西はこの局面において国を救う唯一の手段は航空機による体当たり攻撃以外には道はないと考えた。この決断の背景には、当時の青年が死しても国を護りたいという純粋な気持ちがあったからだ。大西はこの青年らの信条を組んで、特攻という作戦を苦渋のなかで決断したのである。
特攻隊が初めて編成されたのは昭和19年10月19日。250キロ爆弾を搭載した零戦を敵の空母に体当たりさせることを目的としたものであった。
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<プロフィール>
濱口 和久 (はまぐち かずひさ)
昭和43年熊本県菊池市生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、民主党本部幹事長室副部長、栃木市首席政策監などを経て、国際地政学研究所研究員、日本政策研究センター研究員、日本文化チャンネル桜「防人の道 今日の自衛隊」キャスター、拓殖大学客員教授を務める。平成16年3月に竹島に本籍を移す。現在は、日本防災士機構認証研修機関の(株)防災士研修センター常務取締役。著書に、『思城居(おもしろい)』(東京コラボ)、『祖国を誇りに思う心』(ハーベスト出版)、「だれが日本の領土を守るのか?」(たちばな出版)。11月25日には、夕刊フジに連載中の企画をまとめた『探訪 日本の名城 上-戦国武将と出会う旅』(青林堂)を発売。公式HPはコチラ。
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