<大西の思い>
大西は特攻の精神を、「身を殺して仁をなす、わが身を捨てて公を助ける」と言っている。「特攻によって日本は米国に勝てないまでも負けない。その精神が続く限り日本は亡国にならない」と考えていた。昭和19年10月19日、250キロ爆弾を搭載した零戦を敵の空母に体当たりさせることを目的とした特攻隊が初めて編成された。
そして、20日早朝、司令部本部の前庭に、20数名の甲種飛行予科練習生10期出身の搭乗員が整列するなか、大西は「国を救う者は大臣でも軍令部総長でもない。諸子のごとく純粋にして気力に満ちた青年である」と訓示し、最後に「自分も後で行くから」と付け加えた。そのときの様子を大西の副官を務めた門司親徳主計大尉(当時)は次のように回想している。
訓示が進むにつれ、大西の身体は小刻みに震えていた。武人らしい精悍な顔は青白く、ひきつったように見えたという。命ずる者と命ぜられる者との間に、渾然一体とした融和があり、純一無雑の空気が流れていた。「大西中将に、自分は生き残って特攻隊員だけを死なせる気持ちはなかったからに違いない。私にもそれは分かったし、特攻隊員にはもっと敏感に伝わったようだ。双方の間にはずれはなかった」と。
<武人としての大西の最期>
敗戦の翌日、8月16日未明、東京都渋谷区南平台の官舎で、大西中将は祖国のために散華した特攻隊員に約束した通り、「特攻隊の英霊に曰す」で始まる遺書を遺して割腹自決した。遺書には特攻で散華した特攻隊員への感謝とともに、生き残った青年たちに対して軽挙妄動を慎み日本の復興、発展に尽くすよう諭している。自決に際してはあえて介錯を付けず、また「生き残るようにしてくれるな」と医者の手当てを受ける事すら拒み、特攻隊員に詫びるかのように夜半から未明にかけて約15時間近く苦しんで息を引き取った。
また、割腹自決時に「これでよし 100万年の仮寝かな」「すがすがし 暴風のあと月清し」という2つの辞世の句を遺している。割腹自決の後、特攻隊員の犠牲者名簿に大西の名前も刻まれ、戦後、未亡人の淑恵さんも特攻慰霊祭に招かれていた。特攻隊員にとって、大西は、特攻作戦の発案者であり、命令者であったが、ともに死ぬことを決意した仲間だったからだ。
大西を知る複数の関係者は戦後、「もし(特攻作戦を行なって)戦争に勝っていたとしても彼は自決していただろう」という証言をしている。まさに大西は最後まで特攻隊との約束を守り、武士道精神を貫き通す軍人であったに違いない。
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<プロフィール>
濱口 和久 (はまぐち かずひさ)
昭和43年熊本県菊池市生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、民主党本部幹事長室副部長、栃木市首席政策監などを経て、国際地政学研究所研究員、日本政策研究センター研究員、日本文化チャンネル桜「防人の道 今日の自衛隊」キャスター、拓殖大学客員教授を務める。平成16年3月に竹島に本籍を移す。現在は、日本防災士機構認証研修機関の(株)防災士研修センター常務取締役。著書に、『思城居(おもしろい)』(東京コラボ)、『祖国を誇りに思う心』(ハーベスト出版)、「だれが日本の領土を守るのか?」(たちばな出版)。11月25日には、夕刊フジに連載中の企画をまとめた『探訪 日本の名城 上-戦国武将と出会う旅』(青林堂)を発売。公式HPはコチラ。
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