今回は、円高が韓国経済にどのような影響を与えて来たのかを見てみることにしよう。
GDPに占める輸出依存度の高い韓国経済において、為替レートはどの要因よりも経済におよぼす影響は甚大であるが、そのなかでも世界市場で競争する日本の円の動向は、韓国経済の動向を占ううえで欠かせない大切な要因である。
日本と韓国は産業構造が似ており、世界市場で競合する商品が多い。そのため、円高になってくると韓国の商品は価格の面で有利になり、輸出が急激に増えるなどの恩恵を受けてきたのも事実である。輸出の好調により景気が上向いてくると、政治家も官僚も経済界も、そのような状況が継続することを望む。そして好況がある程度継続すると、為替レートの恩恵であることを忘れ、まるで韓国経済に力が付いてきたという錯覚に陥って支出を増やし、再び円安が戻ってときには経済が急激に落ち込むなどの失敗を経験している。
実は、円高で苦しむ日本経済を尻目に得意になっていただけで、本当に韓国経済に力が付いたわけではなかったのだ。
最初の円高は1980年代の後半に起こることになる。85年9月の「プラザ合意」の後には円は1ドル当たり240円台だったのが、2年後の87年の年末頃には1ドル当たり120円台でほぼ2倍近く円高になっていた。台湾など当時の競争相手の通貨も切り上げをするムードであったが、韓国だけは通貨の切り上げに踏み込まず、為替レートを維持した。
そのおかげで韓国の輸出は85年度には303億ドルであったが、88年度には607億ドルに急増した。3年間で輸出額が2倍に増加したわけである。輸出が急激に伸びることによって、経済成長も3年連続2ケタの成長を達成する結果となった。
その余波で株式市場も前例のない活況を呈し、83年度末に163ポイントであった総合株価指数が、89年の年初には1,000ポイントを上回るようになった。
景気が好調であるその時期に、韓国では民主化の嵐も巻き起こった。今まで抑えられていた欲求が噴出し、自己の分け前を要求する風潮が芽生えた。最も象徴的な権利要求の事例として挙げられるのは「労働紛争」で、87年10月以降、労働紛争が絶えない日がなく、その結果、賃金の急上昇をもたらすことになる。賃金が上がると消費が伸び、その結果、物価も上昇した。物価が上がると、また賃金を上げざるを得ない悪循環に韓国経済は陥ることになる。
景気の過熱は不動産投機を誘発し、土地と住宅はひっきりなしに上昇することになる。住宅の価格を安定させるため、韓国政府はソウルの郊外に5つの新都市を建設することになるが、その過程で建設に対する投資が爆発的に伸びてきた。
輸出が伸びて経常黒字が増えてくると、韓国政府はその解決策として市場開放策をとり、輸入を増やす政策に舵を切った。
それから福祉政策もこのときスタートをさせた。この時期に初めて韓国の経済5カ年計画に「福祉」という項目が入るようになった。全国民を対象にした医療保険制度の実施、国民年金制度の導入、最低賃金制度などの大きな福祉制度は、実はこの時期に大挙して実施されたのだ。輸出の拡大は、韓国経済に力がついた結果として起こっている現象だと思い、支出を大幅に増やす政策をとったのである。
しかしその後、円安になることによって、韓国経済は大きな試練に立たされることになる。好況のときに上昇をし続けた賃金は、不況時にもかかわらず上昇を続け、87年以降の10年間で賃金は4倍に上昇することになる。賃金の急上昇によって韓国の製造業の競争力は弱体化し、輸出も伸び悩み、消費と建設だけが過熱して経済を引っ張っていくという、脆弱で歪な経済構造になってしまった。
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