NET-IBでは、政治経済学者の植草一秀氏のブログ記事から一部を抜粋して紹介する。今回は、元参議院議員の平野貞夫氏が刊行した『戦後政治の叡智』(イースト新書)を紹介し、過去の歴史事実を丹念に読み取ったなかから「叡智」と呼べるものを抽出することは意味のあることとする6月1日付の記事を紹介する。
元参議院議員の平野貞夫氏が『戦後政治の叡智』(イースト新書)を刊行されている。平野貞夫氏が関わってきた6名の政治家の姿を縦横無尽に描かれている。6名の政治家とは、吉田茂、林譲治、佐藤栄作、園田直、前尾繁三郎、田中角栄の各氏である。
平野氏は1935年の生まれ。現在、78歳になる。1959年に法政大学大学院社会科学研究科政治学修士課程に在学中、臨時職員として衆議院事務局に奉職する。修士課程修了後の1961年には、正式に衆議院参事に就任。爾来、1992年7月の参院選で参議院議員に就任するまで、30年余の時間を衆議院事務局に奉職した。
この間、園田直衆院副議長秘書、前尾繁三郎衆院議長の秘書を務めた。1992年に参議院議員に選出されたのちは、一貫して小沢一郎氏と政治行動を共にして現在に至る。
文字通り、小沢一郎氏の知恵袋として今日まで活躍し続けている人物である。
この平野氏が参議院議員に就任するまでの30年の経験を踏まえて、戦後日本政治の叡智を語っている。30年間の歴史が、まるでいまそこにある現実であるかのように、鮮明に映し出される。国会の生き字引とまで言われた平野氏の事実経過の正確な再現と、その背後にある複雑な政治事情の描写は見事と言うほかない。この30年間の記録を丹念に執筆、管理、検証されてきた賜物であるといえよう。
参議院議員に就任してからは、自民党、新政党、新進党、自由党、民主党を経験してきたが、これは、小沢一郎氏の歩みそのものでもある。終始一貫して小沢一郎氏と共に歩み、小沢氏のまさに盟友のとして激動の20年を歩んでこられた。本書の巻末には野中広務氏との対談も収録されている。
小沢一郎氏との確執が伝えられる政界の重鎮とも、政治的な立場を超えて対話のできる懐の広さを兼ね備えた貴重な人物である。衆議院事務局で、永年にわたって衆院正副議長の秘書を務められたのは、裏も表もある政治の世界と渡り合う、官僚としての難職をこなしてゆくに際して、まさに余人をもって代えられない平野氏の実力があったからと推察される。
平野氏は、歴史的な事実に関して、その詳細を把握するともに、そのすべてを克明に記録に遺す地道な作業を継続してこられた方である。その膨大な記述の歴史記述上の価値は計り知れないが、極めて精力的な執筆活動を通じて、その事実が白日の下に晒されることも少なくない。関係する当事者からすれば、恐怖の存在でもあるに違いない。
平野氏は高知県土佐清水市の出身。同地は黒潮が直岸するジョン万次郎の故郷でもある。高知は明治初期に、吉田茂元首相の父である竹内綱、林譲治元衆院議長の父である林有造を指導者として、自由民権・国会開設運動が発祥した地でもある。
父は医師で大正期には、共産党の上田耕一郎、不破哲三の父である上田庄三郎氏らとデモクラシー運動にも参加した。平野氏の両親は平野氏を医者にして後を継がせたいとこだわったが、平野氏は「俺は社会の医者になる」と反抗していたとのことである。
平野氏の父は吉田茂元首相の家老職のような立場にあった林譲治と親しく、この関係で平野氏の衆議院への奉職は、林譲治、吉田茂が深く関わっている。平野氏は個人的にも吉田茂との接触が多く、戦後日本政治の叡智としての吉田茂の存在をも重視している。
平野氏が紹介する政治家に対する評価は、評価する立場、視点により異なるものになるだろう。しかし、現実の生々しい政治の現場において、それぞれの政治家がどのように対処し、どのような行動基準をもって対処してきたのかを知ることは、意味のあることである。
平野氏も指摘するように、現実政治は綺麗ごとだけでは済まされない部分がある。それを是とするか非とするかは、判断の分かれるところであるが、こうした現実のなかに政治が存在する、こうした現実のなかにしか政治が存在しないことも事実であり、過去の歴史事実を丹念に読み取り、そのなかから「叡智」と呼べるものを抽出することは意味のあることであると思われる。
6月19日には、村上正邦氏が主宰する「躍進日本・春風の会」が主催する集会が東京で開催される。
「これでいいのか日本!」全国縦断シンポジウム第1回 東京大会」
森田実、平野貞夫、佐高信、菅原文太の各氏が発言者として登場する。
日本政治の現状を憂い、現状を打破しようとする主権者の活動が活発化している。
※続きは1日のメルマガ版「植草一秀の『知られざる真実』」第876号「資本主義の変質に私たちはどう対処するべきか」で。
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