2回目の円高は1990年代の中盤に発生した。90年度には160円まで円安になった円は再び円高に向かい、94年度には1ドル当たり100円を下回るようになり、95年度には史上最低水準である80円近くまでなった。
この過程で、韓国経済はまた輸出価格競争力を持つことになり、活況を呈するようになる。93年の輸出額は822億ドルであったが、95年度には1,251億ドルになり、2年間でなんと50%の輸出伸び率を記録したのである。
当時の輸出品目の内訳を見ると、軽工業商品はそれほど伸びておらず、重工業製品が大幅に伸びているのが特徴である。靴、繊維などの軽工業商品は賃金上昇により競争力をなくし、90年度前半には倒産しているか、外国に出てしまった。しかし、重工業製品の輸出が伸びることで、韓国経済も高度化したと勘違いするようになった。
当時、重工業製品のなかでも石油化学製品が多く伸びていたが、それは三星と現代が石油化学産業に新しく参入し、過当競争をすることになって、一時過剰になっている在庫を処分するため低価格輸出を行なった結果であった。
しかし、このような輸出の好調は、韓国の政府にも韓国の企業にも相当な自信を与え、その結果、身のほどを知らなくなった側面もある。
政府はOECDへの加盟を急ぎ、生活の質の向上、世界化の推進など、先進国入りへの準備に余念がなかった。企業は投資の領域を拡大し、政府の経済自主化に歩調を合わせるように、新規事業への進出など大型投資案件に手を出していた。しかし、緻密な準備なしに行なった新規事業投資などは、大きな副作用をもたらした。
当時の韓国企業の製造業の負債比率は400%で、アメリカの154%、日本の193%、台湾の86%に比較してみても、とても高い水準であった。焼酎で有名なジンログループは、負債比率がなんと3,000%に達しているにも関わらず、新しくビール事業に参入する無謀な行動に出た。韓国の30大財閥のなかで、財務体質が最も健全であった双龍グループは、新規に自動車産業への参入に失敗し、結果的にグループが解体される憂き目に遭う。
96年になって円高は収束に向かい、輸出はまた元通りになったが、その間拡大してきた輸入自由化措置の余波で輸入は増え続けた。
その結果、経常赤字は史上最高である230億ドルに上るようになる。経済が急速に失速し企業に負債の負担がのしかかるようになって韓宝グループを筆頭に韓国大手企業の崩壊が始まる。これは結果的に、アジア金融危機をもたらす引き金にもなる。
それ以降も大、小の円高現象はあったが、一番インパクトが大きかったのは2007年以降である。アメリカ発の金融危機がヨーロッパの財政危機に飛び火し、その結果、円は安全資産として注目されることになる。この時期に日本政府も傍観の姿勢をとり、円高は相当進むことになる。
11年度にはヨーロッパ発の財政危機が本格化し、円は一時期70円まで円高になった。それによって、韓国の輸出はまた活気を取り戻した。07年度には3,715億ドルであった輸出額が、11年度には5,552億ドルになり、50%も伸びて世界7位の輸出国になる。輸入も同時に増加し、世界で9番目に貿易合計額1兆ドルを達成することになる。
しかし、このときにも副作用はあった。11年度ウォン安、景気回復、異常気象などで韓国の国内物価が大幅に上昇したのである。それによって、輸出をしている大手企業はいいが、一般庶民の生活は苦しいという不満を政府にぶつけるようになった。すなわち韓国経済にも、格差の問題が露呈したのである。この問題が12年の大統領選挙で、経済民主化というテーマで浮上するきっかけになる。
今まで見てきたように、円高は韓国経済に良い影響だけをもたらしたわけではない。円高の結果をうまく管理できなかった場合、その後、もっと大変な試練を経験することにもなっている。為替レートに依存する経済より、自力で経済を発展させていくのがどれほど大事であるかを、実感せざるを得ない。
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