世界一周の旅のなかで200のビジネスプランを立案し、帰国した中島氏は、2人の仲間とともにディーノシステムを設立した。今回は、若干21歳で起業家としてビジネスに乗り出した中島氏が、幼少期の家庭環境を振り返り、創業のバックボーンを探っていく。
――御社設立から、「日本の社長.tv」の前身である「福岡の社長.com」がスタートするまで、時間が空いていますが、その間はどのような事業をされていたのですか。
中島 「日本の社長.tv」をやる前ですね。会社を起こした時は、ビジネスプランが200くらいあって、もうよりどりみどりなわけですよ。先日、面白半分で見てみたら、本当にくだらないものもありますが、当時はなかったけど今では当たり前になっているものとか、結構あるんですね。結局のところ、「ビジネスは誰がやるか」だと思いました。アイデアは100でも200でも出てきます。世のなかには、「このアイデアは私が考えた!」と言う人がいますが、人に話したくらいで真似されるのはアイデアとは言わないんじゃないかなと。
そのなかで、最初にやろうとしたのは、『立体的な音で聞こえる怖い話』でした。携帯電話のコンテンツ販売をすることを真剣に考えていました。ビデオレンタル屋さんに行けば、SFもあればアクションもあればドラマもあれば、ホラーもあります。本の世界にもいろいろありますけど、音の世界には音楽くらいと、あとは勉強するための英語教材とかしかない。音の世界はバリエーションが少ないので、もっといろいろ分野があるんじゃないかなと思ってですね。たまたま、私の父が音響技術者をやっていたこともあり、家に大きいスピーカーとか転がっていましたので、なんとなく「音を使ったビジネスをしよう」ということになりました。
――技術者のお父様からクリエイティブなところで影響されたことはありますか。
中島 そうですね、小さいころから、いろいろありましたね。たとえば、クリスマスのプレゼントが『日曜大工セット』とか・・・。ぜんぜん嬉しくなかったですけど。ある時は、マウンテンバイクを買ってもらった友だちをうらやましく思い、「なんで、うちのはお母さんからもらったママチャリなんだ」って言うとですね、そしたらホームセンターに連れられて、道具一式を買い、「じゃあ、このママチャリをマウンテンバイクに改造しろ」みたいな。それで一生懸命、色を塗り替えて・・・。多分、そっちのほうがお金がかかったと思うんですけどね。今振り返ってみると、あまり抑制しないように育てられたと思いますね。
私の姉は、少し障害を持っていまして。未熟児で産まれ、脳に障害があり、アメリカの能力開発研究所っていうところに5歳にならないくらいから預けられて、丸一日、朝起きたら5kmのマラソン、寝る時間と食事する時間以外は障害を克服するためのトレーニングみたいな。母もそういう、訓練時代の思い出を本に書いていまして、15年くらい前まで本屋に置いてありました。そういう姉がいたから、「人は努力をしないといけない」という意識もあったと思います。
今では、私は父をコンサルタントとして雇っています。映像を1カ月に100本、200本作っていて、その製作チームのコンサルティングです。父は、十数年前にコンサルタントとして独立していまして、中小企業診断士の資格やプライバシーマークの取得とかをやっています。
――親孝行ですね。
中島 最初は親孝行のつもりだったのですが、最近、業務量が増えていまして。かなり『身内価格』みたいなものでお願いしています。割に合わないのではないかと(笑)。
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