今や「日本の社長.tv」で全国的に知られるディーノシステムだが、創業時に始めた事業は、今とはまったく異なる内容だった。悪戦苦闘のなかで、中島社長とその仲間たちがとった次の行動とは――。
――『立体的な音で聞こえる怖い話』はどうなりましたか。
中島 まず、私が自分で脚本を書きまして、創業メンバーの1人がかわいそうに声優役をやらされて、買ってきたマネキンの耳にマイクを埋め込んで録音しました。音は、右と左の耳の、音の到着の若干の違いで方向がわかります。2つのマイクで独立してとると、音を追う側の感覚ってわかるんですね。ただし当時は、お金がないのでスタジオなんて借りられず、1時間300円くらいで借りられる公民館で、夏はセミの鳴き声と戦い、夕方は帰宅中の小学生のしゃべり声と戦い、夜は鈴虫と戦い、そして数カ月かけて1本録りました。
「これは面白い!稲川淳二をはるかに超えた」とはりきって、当時のドコモさんやソフトバンクさん、auさんに持ちこみましたが、「実績がないから販売できません」と言われ、当時はそれほかに売る場所がありません。半年かけてつくったものが一瞬で断られ、頓挫しました。でも、会社をつくった以上、これからどうしようかと。言い出したらキリがないんですが、これやる、あれやるで、みんなで出し合ったお金が合計で400万円くらいあったんですけど、半年くらいでなくなりまして・・・。
――あっという間になくなりますね、事業資金なんていうのは・・・。
中島 400万円っていうのはそのときの自分には大金でしたね、21歳だったので。永遠にあるような気がしていたら半年であっという間になくなり、お金を借りて仲間の給料を払ったりしながら、「こんなはずじゃなかったな」と。21歳で会社を作ったと言っても、15歳から働いているので社会人歴では6年目なわけです。大学卒業して23歳で働き出したとしたら、30歳と同じですよ。「あんなにビジネスプランを考えたのに・・・。こりゃいかん!」ということで仲間を集めて、「どうも、俺らが完全にズレているかもしれない」と話し合うことにしました。
まず、「これならアルバイトをしているほうがマシだ」という意見がありました。半年かけて売上が20万円とかでしたから。その20万円もですね、バイト代を入れてです(笑)。次に「もしかすると、起業するとか経営者というのはものすごく高いレベルにいる人なのではないか。日本は、起業する人が少ないが、ものすごく高いレベルじゃないとできないのかもしれない」と。それで「俺らはもしかしたら、箸にも棒にもかからないレベルで身分不相応なことをしたのではないか。じゃあ、みんなの話聞いてみてまわろうか」ということになりました。
――なるほど、それが社長インタビューの原点なんですね。
中島 いきなりソフトバンクの孫社長になれるとは思っていませんでしたが、世のなかには看板の数だけ会社があり、その数だけ社長がいる。その人たちすべてに、我々は完全に劣っているのだろうか、その人たちに会いに行ってみようっていうことで、取材を始めました。撮影とか全然関係なくですね。それからありとあらゆる会合に、お金がないからビジターとして出て行き、たくさんの方と名刺交換をすることから始めました。
韓国語教室の方やデザイナーの社長、年収1,000億円の社長、関係なくご縁をいただいた社長すべてに会いに行きました。こちらが売り込むものは何もありませんでしたが、そのなかで、なんとなく、いろいろなことがわかってきたんですね。「理念は本当に役に立つんですか」「ビジョンってなんですか」などと、いろんな話をお聞きして、「少なくとも、自分が未熟なのはよくわかったが、致命的に能力が至らないとか、そういうことじゃない」ということがわかってきたのです。
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