『林原家』を執筆した元林原の社長林原健(はやしばら・けん)氏は、林原一郎、英子夫妻の次男として、1942(昭和17)年1月12日誕生。長男の紘一が0歳で夭折したため、林原家の跡取りとして育てられた。1961(昭和36)年、慶応大学法学部在学中に父一郎の死去にともない、弱冠19歳で林原の4代目社長に就任した。
また健氏より先に『破綻』を出版した林原靖(靖)氏は1947(昭和22)年生まれ。林原一郎夫妻の四男として誕生したが、兄・紘一(長男)、暲(三男)の早世により、長兄・健と共に林原グループの経営に当たる。岡山大附属中学、慶應高校から慶応大学商学部に進み、69年卒業と同時に林原に入社。78年取締役経理部長。85年には中核4社(林原・林原商事・林原生物化学研究所・太陽殖産)の専務として26年間在任したが、2011年の会社破綻ですべての役職を辞任することになる。
中国地区5県のうち政令指定都市は、広島市(人口118万人)、岡山市(人口71万人)の2つ。林原が本社を置く岡山市は岡山県(人口192万人)の県庁所在地であり、その人口割合は37%と高く、県の経済・文化の中心都市となっている。
林原家は関ヶ原の戦いで武勲を立てた姫路藩主池田輝政に従い武士として仕えていたが、姫路藩(42万石)から鳥取藩(32万石)へ減俸:されたことから、自ら士分を捨てて藩の御用商人となり、藩主の岡山移封にも付き従った忠勤の家柄であったと林原は語っている。
これからその林原家の(1)創生・隆盛期、(2)停滞・再興期、(3)成熟期、に至る栄枯盛衰の経緯を時系列に追いながら、その破綻の要因を探っていくことにする。
1.林原家の栄枯盛衰の歴史
(1)創生期・隆盛期
林原家は1883年初代林原克太郎が岡山で米や芋を原料とする水飴製造業の林原商店を創業することからその歴史は始まることになる。
1932(昭和7)年に林原一郎が3代目社長に就任
・研究開発や経営多角化を推進し、酸麦二段糖化法を導入し「太陽印水飴」として国内だけでなく中国大陸方面へ販路を拡大して、林原の基盤を固めていく。
・1942年に4代目となる林原健が誕生。
・1945年米軍の岡山空襲により工場を焼失するが、翌年には水飴製造を再開。水飴販売で巨万の利益を上げた財力で、JR岡山駅南の旧住友通信工業の工場跡地約2万坪の土地購入や、相続で困窮する旧藩主の池田家の頼みで収蔵品(刀剣や美術・工芸品)を購入。林原一郎の死後、その展示のために林原美術館を開設している。また岡山城の堀(約1万3,600m2)を購入したが、林原創業100周年の記念として、林原健社長時代の1983年(昭和58年)岡山市に寄贈している。
・バブル期に林原家が所有する不動産の時価評価額は1兆円といわれ、その大半は林原一郎が戦後10年間で購入したものが殆どで、関東で巨大西武グループを築き上げた総帥と対比され「西の堤康次郎」といわれるほど傑出した人物であった。
・スキルス胃がんが見つかってわずか2カ月後の1959年4月17日、林原一郎は享年52歳の若さで息を引き取り、残された若き子息に後を託すことになった。
また同じ年の8月14日、西武の堤康次郎と鉄道事業で競う、東急コンツェルンの総帥五島慶太も77歳で死去している。「ピストル堤」の異名を持つ堤康次郎と、「強盗慶太」の名を持つ東急の五島慶太は、東急対西武戦争(箱根山戦争・伊豆戦争)を繰り広げるライバルであった。
・奇しくも堤康次郎氏の後を継いだ西武グループの総帥堤義明氏は2005年3月3日、西武鉄道株式に関する証券取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載、インサイダー取引)の疑いで東京地検特捜部に逮捕され、その座を失った。また林原一郎の後を継いだ林原グループの総帥である林原健氏も、その6年後の2011年2月2日、会社更生法申請によってその座を降りることになり、後継2人が共に会社を追われるという数奇な運命を辿っている。
*林原一郎<1908(明治41)年7月26日生-1959(昭和34)年4月17日 日本の実業家 大阪商大卒 岡山県出身>
*堤康次郎<1889(明治22)年3月7日生-1964(昭和39)年4月26日日本の政財界人 早稲田大学卒 滋賀県出身 第44代衆議院議長>
*五島慶太<1882(明治15)年4月18日-1959(昭和34)年8月14日 日本の実業家(東急の事実上の創業者) 東京大学卒 長野県出身>
(つづく)
【北山 譲】
◆健康情報サイトはこちら >>
健康情報サイトでは健康・食に関する情報を一括閲覧できるようにしております。
※記事へのご意見はこちら