一部の文献では、「荒津」も同じ「博多津」以前からの呼称であると述べていることに触れて、その誤りを正しておこう。
「荒津」とは、特定の船泊(ふなどまり)や、それに面した丘陵を表していた。今の西公園と、その下にある、福岡中央ふ頭の位置である。九州考古学の父と言われ、「鴻臚館」の位置を現在の福岡城三の丸と言い当てた、中山平次郎博士もそこを強調している。「博多津」「那の津」等とは違い、「荒津」だけは、狭い場所を表現しているのだというのである。今でも中央ふ頭に、外洋からの船が停泊するように、鴻臚館時代から博多湾の中心部でただ一カ所、喫水の深い外洋からの船が停泊できるところだったのである。だから、「鴻臚館」はその対岸に立地したのだ。(現在では、博多、箱崎、香椎の埋立地に設置された港湾で毎年巨額の浚渫費用が国費で投入されている。博多湾はそんな構造なのである)
添付した古地図(住吉神社所蔵)を見ていただこう。地図に記された文面は江戸時代に記入されたものだろうが、地図自体は鎌倉時代のものだろう。そこに「冷泉津」との表記が真ん中にあり、北東部に「袖の湊」の表記がみられる。「袖の湊」は1161年に平清盛が、大和田泊(神戸)に先んじて、浚渫(しゅんせつ)工事を伴う日本初の人口港を築いたものである。その上流の「冷泉津」は河川と汽水域を対象に置いた補助的港であり、「博多津」と同義には考えられない。
(つづく)
【溝口 眞路】
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