この光景を目にしたお客の多くが口にする。「鴻臚館のすぐ先まで海が迫っていたのですね。」とか「今ビルが建っているところはすべて埋立地なのですね」と。「はい、その通りです」と相槌を打ったからと言って、そんなに真実を歪めたことにはならないとは思うのだが、それでは本当に大切な事が伝わらない。だから、あえて逆らってみせる。「鴻臚館の北端、4.2メートルの石垣の下は砂浜でした。その先に砂丘がありました」、「埋め立てなくても、この2000年間というもの、博多湾は川と海の流れで運ばれた土砂で、海岸線は後退し、陸地化が進んでいます。砂浜・砂丘・干潟を整地し、客土しただけ、埋立地とは所詮そんなものです」と。現代でも、百道浜は砂丘を、アイランドシティは干潟を埋め立てたのだ。
もちろん、紀元前には石垣のすぐ下に海岸線が迫っていたかもしれない。しかし、鴻臚館が建っていた時代(7~11世紀)には砂浜に割れた瓦を敷いて道が造られた。その道の先に、おそらく板組であろう船着き場が造られ、底の平らな小舟で、人と荷物が着いたのだろう。外洋を渡ってきた大船が着岸できる岸壁が古代に存在したはずもなく、おそらく大船は荒津の岬の沖に停泊していたと考えられる。
博多湾全体について詳しく述べてみる。志賀島の東、西戸崎・雁ノ巣の間にできた砂州で大きな入海が出来た。西は能古島を挟んで今津との間が玄界灘に開口し、博多湾を形成する。その大きな入海の内側にも、また小さな入海ができる。強固な岩石でできた荒津山の西にも砂州ができ内側に入海を創る。小さいとはいえども相当なもの。奥には干潟や汽水域ができ、長い年月を経て陸地化が進む。人が少し手伝えば、土地ができるのだ。荒津と鴻臚館が建っていた赤坂山との間を閉じただけで、黒田長政は「大堀」を創った。その大濠はもともと干潟だったので草が生え茂っており、草香江との地名はそこから来たのだ。あまり見栄えの良いものではなかったので、3分の2を埋め立て、少し深く掘って西湖のように化粧したのが、今の大濠公園。大正末から昭和の初めにかけての事だ。大濠公園は今でも道路下の黒門川で博多湾に通じている。
さて、その赤坂山の麓に何故、鴻臚館が立地できたのかを次に述べる。
(つづく)
【溝口 眞路】
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