安倍内閣は7月1日の閣議決定で、憲法解釈を変更し、日本が集団的自衛権を行使できるとした。
「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に武力行使を限定した「専守防衛」を投げ捨て、「自衛」と称すれば政府の裁量で武力行使を無限定に可能にする道を開いたものだ。憲法9条の機能の停止である。今後閣議決定に基づく法整備が進めば、国民の基本的人権を定めた条項も次々停止させられるだろう。なぜならば、戦争と人権は相いれないからだ。
日本は、1956年とは違った意味で、「もはや戦後ではなくなった」。56年当時は、日本国憲法のもとで日本は「平和と繁栄」を謳歌する時代を駆け上っていった。「戦前・戦中」を経て、「戦後」という時代に区切りを付ける意味だった。今度は、ずばり、戦前に突入しようとしている。
「日本国憲法が許すのは、あくまで我が国の存立を全うし国民を守るための自衛の措置だけだ」。安倍晋三氏は同日の記者会見で述べたが、この言葉は空疎というよりも、閣議決定の本質を表す危険な宣言だ。閣議決定に貫かれているのは、「自衛」と称して、「あらゆる事態に切れ目のない対応を可能」とする立場である。ここでいう「対応」とは、武力行使のことにほかならない。
たとえば、集団自衛権行使の容認をめぐって、石油資源確保のためのシーレーン防衛が繰り返し語られた。石油確保は我が国の存立に死活的だから、武力を行使できるというものだ。戦前の日本が「ABCD包囲網によって追い込まれ、対米戦争を決意した」とする「自衛戦争」論に重なる理屈だ。閣議決定があげている「武力攻撃に至らない侵害への対処」やPKO(国連平和維持活動)は、集団的自衛権とは全く別の話だ。
安倍晋三氏は同日、「外国を守るために日本が戦争に巻き込まれるという誤解があるが、ありえない」と述べた。これは、「日本が国外で武力を行使しない」という意味ではなく、単に集団的自衛権の法的性格を述べたに過ぎない。「外国を守るための戦争」ではなくても、「自衛戦争」をやるというのだから、言葉のレトリックを使った騙しである。
集団的自衛権は、「自衛権」ではなく、「他衛権」と受け取られがちだが、自国を防衛する権利ととらえるのが通説だ。通説によれば、他国が攻撃を受けた時に、その国の安全と独立が自国の安全と独立にとって死活的であると認められる場合、自衛行為として武力行使ができるという考えである。外国を守ることがあっても、それは武力行使の結果であって、目的はあくまで「自衛」である。
(つづく)
【山本 弘之】
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