田中相談役は後任の頭取に田原鐵之助氏を指名したにもかかわらず、更迭に動くことになったのは、田原氏が頭取に就任早々、田中氏が頭取時代に膨らませた不良債権を一気に前倒し処理したことや、田中氏と親しい生命保険会社との癒着問題を糺そうとしたことが、引き金となったといわれている。
田原頭取を罷免する対案を提出した8名の経歴調べていくと、表1のようになった。守旧派8名のうち、従業員組合の委員長・副委員長と書記長の7名が、もう1人の対案賛同者である福田氏を頭取にする構図が浮かび上がる。
役員の指名権は代表取締役にあるが、役員選任は代表取締役であっても平取締役であっても全員1票であり、役員会での決議によって決まるため、そのことを良く熟知した上で、田原頭取の再任否決の対案を提出したことになる。つまり福田氏を頭取に引き上げるために、組合出身の取締役7名が組織的に行動したのがわかる。
過半数を制する8名を糾合したのは、「この背後には頭取を五期十年務め、「山銀のドン」といわれる田中耕三相談役の姿が見え隠れしている」(『選択』2004年8月号「経済情報カプセル」)と書かれている通り、田中相談役だった。
田中氏は相談役なので、午後から始まる取締役会議には出席できないが、午前中に開催された経営会議(いわゆる常務会)にオブザーバーとして出席し、田原頭取更迭議論がシナリオ通りに進むのをじっと見守っていたといわれる。
田中氏は組合対策のエキスパートとして、日立製作所から山口銀行に入行した経歴の持ち主で、いわば御用組合の生みの親でもあった。田中氏は頭取に就任すると、組合幹部出身者を次々と役員に引き上げており、いわば子飼いの役員7名が『いざ鎌倉へ』と、田中相談役のもとに馳せ参じ、決起したクーデターであったことが読み取れる。
(つづく)
【北山 譲】
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