さて、鴻臚館の立地である。
海からの外来の施設を迎える施設は、海岸近くに立地した方が良いことは当たり前だ。それに加えて、海からの侵攻から、自らの中枢機能を遠ざけたいとの思惑も手伝う。しかし、海沿いの土地の難しさは、これまで述べてきた通り。頑強で壮大な施設はつくれない。ところが、鴻臚館の立地は、そんないくつもの問題を一気に片づけてくれたのだ。
外洋を渡る喫水の深い大船が泊れる海は荒津しかないのであれば、荒津山に鴻臚館があればよい。ところが、荒津は硬い岩でできた山で、江戸時代、そこを福岡城の候補地として検討した黒田長政も、大きな城の建設を断念したという。
ところが、その対岸にある赤坂山の麓は、頁岩でできた強い地盤であると同時に、比較的加工・造作が容易な岩山だったのだ。近頃、有名になったシェールが頁岩だ。赤い頁岩でできた山は、大雨で地表がはがれると、赤い岩肌を露出した。そのために「赤坂」という地名ができたという。
添付した写真は、鴻臚館跡展示館内の礎石である。この上に柱をたてることで、大きな建造物を長期間保持できるのだが、礎石は硬い玄武岩である。その玄武岩を据え付けるために、頁岩を削って浅い穴を穿った様が見てとれる。頁岩でできた台地が鴻臚館の立地する赤坂山麓なのだ。後に黒田長政も福岡城の立地として選択したように、古代の鴻臚館も、ここを絶好の立地として選択したのだ。
次回は、やっと本筋に入り、鴻臚館ができた要因と、日本国の誕生に触れる。
(つづく)
【溝口 眞路】
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