山口銀行の頭取交代劇は、金融庁や日銀に大きな負い目を追うことになった。ちょうど2004年の秋を過ぎた頃、破綻寸前のもみじ銀行救済に手を挙げる銀行がなく困っていた金融庁は、山口銀行ともみじ銀行の2行へ、同時に金融検査に入っている。その目的は、クーデター安堵を引き換えに、山口銀行にもみじ銀行を引き受けさせるためだったと言われる。翌年に入りデューデリを開始し、6月には資本提携締結を公表。金融当局の思惑通り06年10月、山口銀行は山口FGを設立し、もみじ銀行を傘下に収めることになる。
また日銀は、福岡県内に福岡支店と北九州支店の2つの支店があるが、北九州には地元銀行がなく廃止論がくすぶっていたため、日銀は北九州支店存続の協力を要請。それを受けて山口銀行は11年10月に、北九州銀行を設立開業したのだ。
いずれにせよ、田原頭取罷免のクーデターは、組合幹部出身の取締役によって引き起こされたものであったのだ。田中相談役と組合幹部出身の取締役、そして田中相談役と親しい生命保険会社の女性外務員とのトライアングルによる違法な保険勧誘が、その引き金となった。
まさに頭取交代劇(クーデター)によって、山口銀行を中核とするもみじ銀行・北九州銀行の3行を傘下に持つ山口FGは誕生したと言えるのかもしれない。
山口銀行本店(地下2階)の大金庫室の真ん中の礎石には、「百万一心」と刻まれている。百万一心とは、三矢の教えを説いた毛利元就が吉田郡郡山城(安芸高田市)を普請する際、人柱の代わりに使用した石碑に書かれていた言葉であり、「一日一力一心」と読み解くことができる。
布浦眞作元頭取は著書(百万一心 布浦眞作元頭取・会長ご挨拶)のなかで、『山口銀行も量においては、決して日本一の銀行というわけではない。山口県という環境が、必ずしも当行が全国トップを切るほどの環境でもない。何よりも大切なのは人であり、人の力であります。ことに折角人がいても、派閥闘争や勢力の引きずりおとしやっていたのでは、なにもならないのであります』と記している。
山口銀行(FG)は金融当局によって安堵されることになったものの、まさに布浦元頭取が危惧したように、今も山口銀行は頭取交代劇によって、OB間、とくに役員OB間では修復不可能な大きな亀裂が残っており、礎石に刻まれた布浦氏直筆の「百万一心」に暗い影を投げかけていると言われる。
(つづく)
【北山 譲】
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