事情通は冷めたコーヒーすすりながら、また話し始めた。
「さすがに、人事の田中といわれるだけのことはある。というのは、組合出身の取締役は、組合三役へ抜擢かされて取締役に登用されるまで、全て田中氏の掌で生かされることになり、逃げるに逃げられない状況だったのだと思う。
『こうして取締役になれたのは田中頭取とS女史のお蔭』と、彼らは知らず知らずのうちに、いわば教祖に仕える信者のように、洗脳されていくのと同じなのかもしれない。やがてS女史のためになお頑張らなくてはと、ついには傘下の支店長に保険勧誘に協力するよう号令をかけるまでになっていく。
とくにS女史の保険勧誘に積極的だったのは、田原頭取の再任に反対の動議を提出した専務取締役徳山支店長だった広田英夫氏だったといわれる。組合の副委員長であった広田氏は、高卒でありながら専務までに登用してくれた田中頭取に対する忠誠心は厚く、傘下の支店長の人事考課は支店業績のほかに、S女史の保険勧誘にどれだけ貢献したかによって評価していたと伝えられるほどであった。
もし田原頭取がそのまま頭取の座にいれば、真っ先に退陣を迫られるのは彼らだった。組合出身の取締役7人が田原頭取の罷免に賛成したのは、共に一蓮托生であり、今ある地位をお互いに守るためには、田中相談役の指示に従わざるを得なかったというのが実情だったのだ。
それとは別のルートで取締役の座を掴んだ者がいる。会長に抜擢された勝原氏と、田原頭取の後継に指名されることになった福田浩一氏の2人だ。
総務部次長だった田中氏は1968(昭和43)年、布浦眞作頭取(当時)の「田中君には将来の取締役のため、営業店で勉強してもらおう」との計らいで、本店営業部の副長に転出することになった。そこで部下として仕えたのが同じ慶応大の出身で得意先係の勝原一明氏だった。S女史の保険勧誘に協力した勝原氏と田中氏とは、固い絆で結ばれていくことになった。
田原氏を取締役に指名したのは晩年の伊村会長であり、勝原氏を取締役に指名したのは田中頭取だった。このことも後に頭取、会長に就任した2人は因縁の対決をする運命にあったのかもしれない。
また、田原頭取の罷免によって頭取となった福田浩一氏も組合幹部出身ではないが、S女史の保険勧誘に積極的に協力したことや、田中氏と同じ慶応大出身ということもあり、その地位を得たといわれる。田原頭取罷免に賛成した8名に共通しているのは、S女史の保険勧誘に協力していたメンバーだったということだ」。
最後に『S女史が山口銀行の役員にまで及ぶ人事にまで関与していたことを知った田原頭取が対決姿勢を取ったことが、クーデターを生むことになった』と語り、静かにその場を離れていった。
(つづく)
【北山 譲】
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