お客さまの喜びを肌感覚で共有
私の実家は家業として醤油屋を営んでおり、私が小学校から中学校の頃までは、私の父親は革靴もはいておらず、ネクタイもしていませんでした。一方、友達の父親はネクタイを結んで革靴を履いてバリッとして通勤しているわけです。友達の「とうちゃん」はカッコいいのに、自分の「とうちゃん」は運動靴を履いて前掛けをしている。恥ずかしいと思いました。
よその子の家に遊びに行くと、玄関があって、応接室があって、背広を着ている「とうちゃん」がいて――と、そういうのを見ると羨ましかったです。それでも、家業としての職業観が染み付いていますから、中学校の終わりくらいから、「オヤジの仕事がいいなあ」となんとなく思ったのでしょうね。食べ物を提供して、ときどきおいしかったとか、うまかったとかお客さんに言われるのですよ。そのようなとき、「おおこれか!」と漠然とした感動を覚えたものです。
それでも一方では、サラリーマンの「とうちゃん」たちをカッコイイとは思っているのですけれど、オヤジの配達について行くと、配達先で西瓜や葡萄をくれたり、そこの家の人から「もう10年も20年も、あんたのところの醤油を使わせてもらっているよ」みたいなことを言われると、オヤジがなんとなく喜んでいるような気がしたものです。そういう感じをぼんやりと肌感覚で感じ取っていたのだと思います。
当時は農協の指定醤油屋もやっていました。手伝いの私は、一升瓶を片手に一本持つのがせいぜいだったのに、父親は片手にたくさんぶらさげていくわけです。そういうものを傍目に見ながら、子どもながらに感じるものがありました。だからこそ今、仕事を継いでいるのではないでしょうか。そのあたりの微妙な機微を、今の世代はうまく伝えることができなくなったのではないでしょうか。
【文・構成:田代 宏】