<ビタミンB1:鈴木梅太郎とフンク>
江戸時代、とくに華美な生活が流行った元禄時代に、江戸を中心に脚気(かっけ)が流行した。もちろん、当時は脚気という病名はなく、箱根を越えて故郷に帰るとたちまち治ることから『江戸わずらい』として江戸の風土病と考えられていた。
明治時代、脚気は結核と並んで二大国民病とされ、年間1万人から3万人もの死者を記録している。とくに海軍では被害が甚大で、272日間の遠洋航海で376名中169名(実に45%)が脚気になり、25名が死亡したという記録が残っている。
海軍軍医の高木兼寛は、その原因を栄養障害ではないかと推測、1884年に海軍の食事を和食中心から洋食に切り替えた。そして287日間の航海実験をしたところ、船員333名中、脚気を発症したのはわずか16名(4%)に激減、死者は皆無であったという。それに対して陸軍では、相変わらず白米中心の食事で多数の脚気患者と死亡者を出していた。陸軍の軍医は森林太郎で、脚気は細菌でひき起こされるものと主張していた。その結果、とくに日露戦争では、陸軍は脚気によって2万7,000人を超える死者を出すことになる。高木兼寛は東京慈恵会医科大学(現在の慈恵医科大学)の創始者であり、日本最初の看護学校の創立者でもある。森林太郎は、後の文豪・森鴎外その人だ。
日本だけでなく、アジアでも広く見られる脚気の研究では、オランダのエイクマンやグリーンスが、白米に含まれる必須栄養素(予防因子)が不足しているという考えに到達した。
鈴木梅太郎は1910年、米ヌカのなかの栄養素を結晶状に精製し、1912年にはドイツの学会誌に『オリザニン』という名称で発表した。前年の1911年、ポーランドのフンクはこれと類似した物質を「生命に必要なアミン」という意味で『ビタミン』と名付けて発表している。フンクは、当時の難病であるクル病、壊血病、ペラグラなどが未知の栄養素欠乏症ではないかと類推、母国・ポーランドから移住したフランス、ドイツ、イギリス、さらにアメリカを経て研究生活をつづけたのである。彼はみごとにビタミンの命名者として歴史に名前を刻むことになった。
(つづく)
<プロフィール>
伊藤 仁(いとう ひとし)
1966年に早稲田大学を卒業後、ビタミンのパイオニアで世界最大のビタミンメーカーRoche(ロシュ)社(本社:スイス)日本法人、日本ロシュ(株)に就職。「ビタミン広報センター」の創設・運営に関わる。01年から06年まで(財)日本健康・栄養食品協会に在籍。その間、健康食品部でJHFAマークの規格基準の設定業務に携わる。栄養食品部長を最後に退任。