<ビタミンB1:わが国における脚気の歴史>
高木兼寛と森林太郎の脚気をめぐる論争は、海軍vs陸軍の戦いだけでなく、高木vs東京帝国大学医学部の戦いでもあった。高木は、現在でいう疫学研究によって脚気による死者を極限まで減少させることができたのに対し、森が軍医の陸軍では、相も変わらず多数の脚気による死者を出した。
日露戦争でも、海軍が87名の発症患者にとどめたのに対し、陸軍では25万人強の脚気患者を発症し、約2万7,000人が死亡している。高木が、脚気の原因は栄養にあるとしながら、その医学的根拠を理論的に説明できなかったことは弱点ではあるが、それ以上に、森と東京帝国大学医学部が高木の成果に対してもう少し謙虚で柔軟な姿勢をとっていれば、こんなにも多数の人命を失うことはなかった。
脚気の原因をめぐる論争はなかなか終息せず、1919年に島薗順次郎が日本内科学会での報告以降、脚気はビタミンB欠乏が主因とする見解が主流になり、1933年にビタミンB1の欠乏によると報告された。
日本において、脚気による死亡者数は1945年ごろまでに毎年1万人を超えている。1950(昭和25)年で約4,000人だった。脚気による死亡者が0(ゼロ)になったのは1960(昭和35)年代に入ってからである。その大きな要因はビタミンB1の合成が成功し、多種類のビタミンB1製品が上市されたことによる。日本では、藤原元典と武田薬品工業が開発したアリチアミン(B1誘導体)が、腸管吸収の良さから広く利用された。
ところが1975年、西日本の高校生に脚気が再発した。原因は砂糖の多い飲料や食品、そしてインスタント食品などのジャンクフードを食べていたことに起因している。21世紀に生きる私たちの食生活は果たしてどうだろうか。インスタント食品に頼りすぎる生活は、知らず知らずのうちにビタミン不足の状態を招いているかもしれない。
日本で脚気とビタミンB1の因果関係が論争されていた当時、1920 年頃から30年代にかけて、ヨーロッパではビタミンCをめぐる発見と合成の時代であった。
(つづく)
<プロフィール>
伊藤 仁(いとう ひとし)
1966年に早稲田大学を卒業後、ビタミンのパイオニアで世界最大のビタミンメーカーRoche(ロシュ)社(本社:スイス)日本法人、日本ロシュ(株)に就職。「ビタミン広報センター」の創設・運営に関わる。01年から06年まで(財)日本健康・栄養食品協会に在籍。その間、健康食品部でJHFAマークの規格基準の設定業務に携わる。栄養食品部長を最後に退任。