2024年05月10日( 金 )

経済小説『落日』(61)困惑2

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谺 丈二 著

「委員長、困りましたよ」

 選挙が終わって数週間後、組合本部に出勤した大川に待ちかねたように島田が駆け寄ってきた。

「どうしたの」
「会長が上部に異動を掛け合っているみたいなんですよ」
「どういうこと?」

 自席に向かいながら大川が言った。
「それが、選挙の責任を取って会長を辞任して上部の専従になりたいと」
「何だって?」
「とりあえず別室で詳しく説明します」

 島田は部屋の奥にあるミーティングルームに大川を促した。

「まずいことに外部でその話が結構広がってしまっているらしく、私の知り合いからも数件、確認の電話が入っているんです」
「朱雀屋労連の会長といえば組合員5,000人のトップだ。いくら進退窮まったといってもそれはないだろう」
「上部もその辺を心配しているらしくて」
「しかし、個人的には起死回生って手かな」

 足もとに眼を落としながら最初は口をゆがめた大川が思い直したように小さく笑った。

「起死回生ですか」
「うん、選挙に関して一番楽観的だったのが矢島さんだったからね」
「そうですね。学級委員の選挙じゃないんだからといくら言っても最後まで涼しい顔でしたから」
「彼にとって最初からこの選挙はどうでもよかったんだ」
「やっぱり」

 大川と島田は苦笑いのなかで顔を見合わせた。

「会長、トップというのは責任をとるために存在します。労働組合にとっての選挙はいわば経営と同じです。経営を失敗すれば、当然責任問題になります。とにかく木田さんの出馬を止めてください」
 選挙前、危機感と当事者意識の薄い矢島に口を酸っぱく注意した大川だったが、矢島の反応は傍観者の域を出るものではなかった。

 矢島は原田と大川の間の世代だった。長く朱雀屋を離れていた矢島の周りには、親しく相談できる相手も取り巻きもいなかった。もちろん、朱雀屋への帰属意識もないに等しい。

 もともと矢島には朱雀屋労組に戻ってくる意志はなかった。利益が出なくなった朱雀屋である。いくら経営陣が労働条件の向上を意図しても、銀行が経営の主導権を握っている以上、その実現は不可能だった。そんな労組のトップに旨みはない。おまけに業績不振の朱雀屋の労連会長はいろいろなところで、否応なしに他社組合幹部の耳目を集める。原田のたっての願いということで仕方なく醒めた思いのなかで朱雀屋労連の会長を引き受けた矢島だった。

 一方、大川としては、引責辞任の矢島を井坂と交渉して、総務か人事の次長職あたりにと考えていた。

 しかし、組織に愛情がもてない矢島にとっては負け戦が逆にチャンスだった。旧執行部の不正疑惑の一件も矢島の気持ちに拍車をかけた。1日も早く朱雀屋を離れたかった。矢島は組織内外の困惑を尻目にその思いを実現させ、何の未練もなく朱雀屋を去った。

「原田さん、あなたにはけじめをつけていただきたい」

 社長室の黒い大型ソファーに深く腰を落とし、顎を突き出すようにして仏頂面を決め込んでいる原田良隆と向き合いながら河田勇作が言った。社長デスクに井坂の姿はない。

「けじめ?どういう意味ですかね?」
「とぼけないでくださいよ。改めて説明するまでもないでしょう。今回の造反のけじめですよ」

 河田は金縁の眼鏡越しに原田を上目づかいに覗き込むように見た。

「造反? 何のことですかな」

 河田の言葉に不快の表情をさらにあらわにして原田が鼻白んだ。

「造反で悪ければ影響力の行使とでも言い換えましょう。とにかく組織で押した東が落ちました」
「選挙は水ものだ。しかも今回の選挙では私は部外者、おっしゃる意味がわかりませんな」

 原田は首をかしげるようにして河田に切り返した。

「あんたが地元県議や懇意の労組に木田支持を訴えていた証拠はつかんでいるんだ。往生際が悪いよ」
「専務、それはとんでもない誤解ですよ」

 原田が苦りきった顔で言った。

「ところで話は変わるが」

 そんな原田の言葉を無視して河田は続けた。

「例の件だが、中津君には監査役に回ってもらおうと思うんだが・・」

 河田は突然、話題を変え、問題の契約書にあった組合幹部の名前を口にした。

「監査役?」

 河田の意外な提案に原田は腰に置いた両手を左右の膝に移した。

「そう、あんたも一緒に」
「私も? どういうことですか?」
「疑惑に関する資料を誰がどういう意図で集め、我々に届けたのか今のところ理由がよくわからん。その真偽は別として、ある程度の手は打たんといかんでしょう」

 河田は上目づかいに原田を睨むようにさらに続けた。

「その意図が個人的恨みで、彼を会館から追い出したいだけなのかほかにも目的があるのかをたしかめるためにも、とりあえずここは彼を会館から外して様子を見るということだよ」
「そういわれてもですなあ」

 原田が口ごもるように応えた。

「もう決めたことだ。原田さん、これは社長の温情だよ。あんたにも彼にも悪い話じゃないだろう。あんたほどの人間がそこを読めないはずがないがね。役員退職慰労金は少し色を付けさせてもらうから、ここはすんなり引いてもらえんかな」

 原田の言葉を遮るように河田は口調を変えて原田を見る目を固くして言った。

 事ここに至っては原田に複数の選択肢はなかった。しばらく宙に眼を遊ばせた後、原田は意を決して仕方なさそうに無言で頷いた。

 新人事で中津が会館を出て、朱雀屋の監査役に就くと疑惑問題はいつの間にか消えていった。

(つづく)

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