2024年05月07日( 火 )

経済小説『落日』(60)困惑1

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谺 丈二 著

 春の統一地方選挙のK市議選の組織内候補者に、朱雀屋労組は東健太郎の推薦をあっさりと決定した。将来の組合幹部候補として専従になって、まだ4年目の27歳の若い候補だった。会社も積極的に支持をするという姿勢に出た。表向きは世代交代というもっともらしい理由だった。ところが大川にとってとんでもない計算違いが発生した。木田が組織推薦なしで立候補すると言い出したのである。

「裏選対は完璧にやる。あんたは地元を徹底的に固めろ」

 大川と井坂の2人から木田の説得を依頼された原田は逆に木田をけしかけた。原田の狙いは木田を当選させ、東を落とすことで大川執行部をけん制することにあった。決定的に不利な状況に追い込まれている状況をいささかでも挽回しなければならない。

「お前さんだって今議席を失えばただの中年男だ。こっちだっていつクビになるかわからん。ここは東を落とし、あんたを上げて条件闘争に持ち込むしかない」

 原田の提案に木田は何の異論もなかった。

「だめですね。木田は承知しませんでしたよ。奴にすれば大いに予定外のことですからね。議席を失うことは彼には耐えられんようです」

 原田は井坂にそう報告した。井坂はその結果を大川に伝えた。それは大きな混乱につながった。若い東と違って、木田は朱雀屋の社員にも取引先にもよく知られていた。とくに退職した朱雀屋OBには圧倒的な知名度があった。しかも木田は、小学校から大学まで地元といういわば根っからの地の人間だった。当然、組織や地元に対するそれなりの貢献実績もある。

「選挙の件だけどどうなっているの?」
「いや、私にもどういうことなのかさっぱり」

 久保英二は眉を固くして首を振った。定例の幹部会議の席で石井は今回の異例の事態を久保に尋ねた。

 木田と久保は同じ中学、高校の先輩、後輩だった。

「木田さんも、東は組織、俺は地域候補だ。とにかくよろしく頼むの一点張りで」
「そうは言っても基礎票の大部分は朱雀屋社員と取引先頼みだ。組織を二分すれば2人とも落ちるよ」
「やっぱりそうなりますか」
「だって、上位当選といっても木田さんが集めるのはいつも6,000票弱だ。今年は彼らの立候補区は少数激戦ということだから、当選ラインが上がる。当選に必要な票数は4,000あたりだろう。一本化しない限り届かないんじゃないの」
「2人とも落ちますか」
「東には個人票はないし、木田も組織票が逃げれば当選ラインには届かないだろう。どう計算してもそうなるね」

 石井は苦笑いしながら久保を見た。

「それに、会社も組合もその統治能力を問われるね。だって、どこから見てもこんなかたちは不自然だろう。組合の上部団体にしても困っているんじゃないの?」

 一息ついて、怪訝顔で石井はさらに続けた。

「勝てる選挙をわざわざ落とす。上部もあきれているんじゃないの? 組合と企業の双方が笑われるよ。それにこの種の対立は後々まで、その確執を引きずるからね」

 地方の市議会議員の選挙といっても、それは組織を通して、県や国のそれと見えない糸でしっかりつながっている。組合の選挙は組織のメンツをかけた選挙である。内部調整に失敗して、議席を失えば敵対する陣営だけではなく、他の労働組合の仲間からも笑いものになりかねない。

 選挙の結果は石井の予想通りになった。最下位当選者得票は3,900余り。東と木田の得票はそれぞれ3,500と3,700余りだった。合わせれば7,200。両陣営が死力を尽くした結果だった。

「接戦でしたなあ。3,700とは予想外だ。社員の票が相当木田さんに流れたようですな。あなた方は脇が甘いですからなあ」

 社長室に選挙協力のあいさつに訪れた組合三役と東を前にして、井坂はねぎらいの言葉を口にする代わりに無礼な言葉を吐いた。しかし、大川と島田に返す言葉はなかった。

 選挙の結果はほかにも思わぬ騒ぎをもたらした。

(つづく)

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