2024年12月24日( 火 )

山口FG社長交代の深層に迫る(2)

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 そもそも山口銀行では過去どのようなトップ交代が行われてきたのだろうか。まずは設立の経緯から振り返って見ることにしたい。
 山口銀行の前身は、1878年(明治11年)11月25日、旧長州藩士たちが井上馨の勧めにより金禄公債を主な原資として、資本金60万円で設立した第百十国立銀行である。初代頭取には士族総代の右田毛利家・毛利親信が就任。本店は県庁が所在する山口の米屋町だったが、1880(明治13)年に赤間関市(現下関市)に移転した。

 余談になるが、井上は西郷隆盛から「井上は(明治維新)政府高官ながら『三井の大番頭』だ」と皮肉られるほどの政商だったといわれ、第百十国立銀行(後に百十銀行)は設立当初三井財閥系だったという。しかし1927年(昭和2年)3月に発生した「昭和金融恐慌」で経営が厳しさを増したため、三菱銀行に支援を求め三菱財閥系の銀行となったが、その関係も長くは続かなかった。
 41年に太平洋戦争が勃発。戦時下の金融再編が急務となり、非財閥系の三和銀行の支援を受けて、百十銀行を主体に山口県内の宇部・船城・華浦・大島の5行が合併し、44年3月31日に(株)山口銀行が設立された。

 別表の山口銀行の歴代頭取の推移を見ていただきたい。山口銀行の初代頭取に弘津次郎氏(広島商業)。第二代は布浦眞作氏(慶應大)。第三代は伊村光頭取(山口大)。第四代は田中耕三氏(慶應大学院)、第五代は田原鐵之助氏(長崎大)、第六代は福田浩一氏(慶応大)と引き継がれ、6月29日の株主総会後に、吉村猛氏(東京大)が第2代山口FG社長兼第七代山口銀行頭取に就任することになる。二代、四代、六代と慶応大出身が頭取の座に就いており、はたして吉村氏の後の第八代は慶応大卒となるのだろうか。今のところ後継の人材は見当たらないといわれる。
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 第2代の布浦眞作氏は山口銀行の常務を5年歴任し49年3月に頭取就任。74年に頭取を退任したが、実に四半世紀におよぶ在任期間だった。80年まで6年間代表取締役会長を歴任。85年2月に死去するまでの4年9カ月も取締役相談役だった。通算の役員期間は実に41年間におよび、慶大卒の頭取を輩出する先達となった。

 伊村頭取体制が発足した5年後の79年(昭和54年)10月、徳山東支店支店長による定期預証書偽造事件が発覚。取引先の不動産業者の倒産を回避するために、金融業者の導入預金を不正に受け入れる手口であった。この事件による山口銀行の実質的な損害額は16億9,000万円に上ったと言われ、銀行業界全体の信用著しく傷付けることとなった。そのため布浦眞作代表取締役会長は代表権を返上し取締役相談役へ。また筆頭専務もその責任を取って辞任しているが、当時の徳山地区の支店を統括する母店長だった田中耕三取締役徳山支店長は、その責任を問われることはなく、専務取締役へと昇格していったのだ。

 伊村氏は18年間も頭取の座にいたため、行内に「田中頭取待望論」が台頭。それを事前察知した伊村氏は、92年6月、頭取の座を田中耕三筆頭専務(当時66歳)に禅譲し、取締役会長となったといわれる。そのため「頭取交代(クーデター)」は未遂に終わったが、それ以降山口銀行の頭取交代の翳には、常に田中耕三氏の名が見え隠れするようになったといわれる。

(つづく)
【北山 譲】

 
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