九州古代史を思う(9)
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筑紫の君、磐井
はるか後の江戸時代まで、日の目を見る事がなかった志賀島に眠っていた「漢委奴国王」の金印。「日本書紀」編纂の参考資料にした近畿朝廷も、この古代倭国の金印の其の後の行方の情報がまったくなく、日本書紀や古事記にも記す事ができていないのである。
ゆえに、この金印は大和朝廷とはまったくの無関係だった事を物語っているにもかかわらず、新居白石らが提唱する「漢の委の奴の国王印」説が生まれるのである。中国の二十四の史書の内、倭国の王の名が後漢から唐の始めまで継続した倭国の王統の事が合計10の史書に出ている。その史書の記述が、一貫してその王権の所在地や領域の範囲を九州島と記している。3世紀に邪馬壱国と呼ばれた国が倭国を統一していたのが、学者らによって勝手に読み変えられたまま所在地論争が続いているのが、「邪馬台国論争」である。
古代の日本列島の王者は、七世紀末までは倭国(九州王朝)の王で、八世紀の始めに大和朝廷に戦い奪い取られ、すべてを抹消されるのである。
5世紀、宋書の「倭国伝」などに記されている倭の五王・「讃」・「珍」・「済」・「興」・「武」、いわゆる倭の五王は、大和朝廷と別に実在した徐福と倭人の子孫である。
武が自ら「使持節都督、倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の七国諸事安東大将軍倭国王」を称し、上表文を奉じて除せられている謎の五王、最後の王である。
その、倭国最後の“王”となるのが「筑紫の君 磐井」である。562年、新羅が任那加羅諸国を併合した後、新羅と百済は国境を接するようになり、七世紀に入り百済は新羅征討に積極的になった。一方、北の高句麗も南進政策を進めた。西に百済、北に高句麗の脅威を受けた新羅は、中国の「随」、つづいて「唐王朝」に救援を求めた。随・唐は数回高句麗遠征軍を派遣したが目的を果たせず、このため新羅は方針を変え、先に百済を討つ事にした。
任那を基点として親交していた百済からの救援依頼を受けた九州王国は、近畿を統括していた分家的な大和勢力に応援を依頼し、救済するために出陣するが、応援部隊である大和勢力は北部九州まで出てくるが、その地に留まり海峡を渡らなかった。近畿天皇家は九州王朝との手前、派兵はしたが本気で戦う事もなく退却する。
660年2月、唐・新羅連合軍は水陸軍10万を率いて、白村江に上陸、江をさかのぼって倭国・百済連合軍を撃破し、同年百済は遂に滅亡する。戦いに敗れた九州王朝は、捕虜を置き傷ついたまま帰国する。
この機に近畿天皇は、九州王朝最後の王「磐井」に戦いを挑み、ここに九州王朝もついに終演を迎えるのである。
この事を磐井の反乱として、新しい征服政権が九州王朝の記録を全て抹消して、太宰府政庁・観世音寺などことごとく解体したが、政庁跡地には「礎石」が残っている。木材などは、解体し船で大和へ運搬したのであろうか、志賀島において「金印」が発見された事実を見ても、「沖ノ島」を集積場にしたと思考する。しかし、さすがに「礎石」だけは運搬の邪魔になったのだろう。(つづく)
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