奄美・トカラの歴史(1)~奄美・トカラの登場~
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鹿児島県の歴史については、島津氏を中心に以前述べましたが、鹿児島県は南北600kmにおよぶ離島の多い地域です。そこで、今回は離島のなかでも、かつては琉球王国領であったり戦後米軍統治下に置かれたりして、本土とはかなり違う歴史をもつ奄美・トカラ(県の南部400km地域)について述べます。奄美群島は、奄美大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島の5島、トカラ列島(現在の十島(としま)村)は、種子島・屋久島と奄美群島の間に点在する口之島・中之島・諏訪之瀬島・平島・悪石島・小宝島・宝島の7島(以前は小宝島ではなく臥蛇島)が中心です。7島全体で人口700人弱の小さな村です。
まず、奄美・トカラがいつ歴史に登場したのか、についてです。
「あまみ」の初見は、日本書紀の657年の項「海見(あまみ)島」です。「奄美」という漢字が使われたのは、続日本紀の714年の項です。ほかには「阿摩弥」「阿麻弥」「菴美」「雨見」の記録もあります。昭和59年には太宰府から「木偏に奄+美嶋」と書かれた木簡も発見されました。江戸時代の後期になって、「奄美」という漢字が定着しています。
「とから」の初見は、日本書紀の654年の項「吐火羅」です。ほかには「覩貨邏」「都(貝偏に化)羅」「吐佳羅」「度加羅」「土噶喇」「度加喇」の記録もあります。ただし、7世紀の「吐火羅」については、現在のトカラ列島ではないとされ、現在も特定できていませんが、東南アジアのタイのメナム河下流域との説もあります。この初見時期を鹿児島と比べます。「鹿児島」の初見は、続日本紀764年の「麑嶋信尓村(かごしまのしにむら)」です。薩摩国や大隅国の成立が8世紀初めです。「あまみ」「とから」は「かごしま」に比べ、100年以上も早いことになります。これには「海」が関連します。他地域との行き来は現在は交通機関などの発達により陸上の方が一般的ですが、昔は海上が中心で、その範囲も広いものでした。奄美大島の「小湊フワガネク遺跡群」は、7世紀前半のもので、大量のヤコウガイ貝殻が発見されました。ヤコウガイは世界的にも奄美が北限とされ、貝殻は分厚く真珠質で、磨くと美しい光沢を発します。7世紀前半には、ヤコウガイは工芸品として日本に運び込まれていたといわれています。南方の珍品が海を通じて大和朝廷へ、ということです。土器についても、7~11世紀にかけて、九州の影響を受けた兼久式土器が使われています。
古代遺跡について。奄美の最も古い遺跡は、旧石器時代約2万5000年前の土盛喜子川遺跡で、約2万年前の赤木名グスクのマージ層からはチャート(硬い石のナイフ状のもの)も出土しました。トカラでは、旧石器時代の遺跡は発見されていませんが、宝島の大池遺跡は縄文時代前・中期のもので、多数の竪穴住居跡群のほかに、珊瑚の箱式石棺が検出され、オオツトノハ製貝輪3つを装着した40代の女性人骨が出土しました。形質から北九州系の渡来人の可能性が指摘されています。
(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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