奄美・トカラの歴史(3)~15・16世紀~
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15・16世紀の“那覇世”です。
沖縄で統一政権が誕生するのは1429年です。その後奄美大島に侵攻するのが1440年前後、徳之島以南はそれ以前、最後まで抵抗していた喜界島制圧が1466年です。この奄美制圧は、日本への航路確保のための港湾確保と、貿易上の有力な競争相手に成長していた奄美勢力の打倒が主目的でした。この結果、奄美は琉球王国の造船基地・中継基地としての役割は残っても、国外貿易の広い舞台からは閉め出されました。それまでは、自ら造った大型船に50~60人も乗り込んで、九州や琉球などに往来していたのです。統治の仕組みについて。「間切(まぎり)」という行政区域を設定し、大島7間切、喜界島5間切、徳之島3間切などになります。後の市町村の基になりますが、1529年には間切役人が任命されました。間切の長官は首里大屋子(しゅりのふうやく)あるいは大親(ふううや)といいます。役人は本拠地から離れた間切あるいは村に任命されました。勢力を強め過ぎさせないためといわれています。
さらにノロ制度の活用もあります。ノロは、集落の繁栄、農作物の豊作祈願や収穫への感謝の儀式を行う神女として、国王から任命された女性です。国王の妹が最高の神官である「聞得大君(きこえのおおきみ)」の地位につき、琉球全体の神女体系に君臨しました。この考えのもとに、大島では2人の最高ノロがおり、その下に各間切のノロ(大親の姉妹)、さらにその下に1つまたは複数の集落を統括したノロが構成されていました。
トカラについて。「海東諸国紀」(1471年の朝鮮本)記載の地図には、トカラの島々が、口島・中島・臥蛇島・小臥蛇島・多伊羅島(平島)・諏訪せん(諏訪之瀬島)・悪石・島子(小宝島)・渡加羅(宝島)と記されています。
1436年、島津氏は臥蛇島と平島を種子島氏へ与えました。1450年には、臥蛇島に朝鮮人4人が漂着し、臥蛇島は薩摩と琉球に両属しているため2人ずつ分けました。鎌倉のころは千竈氏などの北方勢力下でしたが、このころは琉球王国の南方勢力の関係もあり、「両属」ととらえられています。1513年には臥蛇島から種子島氏に「かつほぶし五れん」が上納されていますが、この記録は我が国における鰹節の初見です。
1578年、島津氏の三州統一を琉球に知らせたのが七島船という記録があります。このころのトカラは「七島」と呼ばれていました。このころ、中之島の郡司が日向の倭寇東与助などを討ちはたし、島津氏から「鎧、槍、長刀」などを拝領したという言い伝えがあります。秀吉の朝鮮出兵や1609年の島津氏の琉球出兵では、七島衆は水先案内をしています。とくに琉球出兵では、「七島弐拾四人衆」を中心に250人が参加しました。功績を認められ、弐拾四人衆1人に付き知行高300石(実際は30石か)を与えられています。弐拾四人衆が貿易商人でもあり、領主的存在(海上勢力的性格)だったことがわかります。
(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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