奄美・トカラの歴史(5)~琉球貿易とトカラ~
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前回は主に交易に関係した「国司」「郡司」について述べましたが、今回は薩摩藩の琉球貿易における琉球・奄美・トカラの関わりを述べます。
一般に江戸時代は鎖国とされますが、実際は長崎だけでなく、幕府の許可の下、松前藩の北方貿易、対馬宗氏の朝鮮貿易、薩摩藩の琉球貿易が行われていました。
琉球は、長年にわたる中国との冊封制度によって貿易の大きな利益を上げていました。前回述べたように、薩摩藩の支配下にあり、日本(薩摩)と貿易をしていることは、中国に絶対に知られてはならないことでした。そこで、薩摩藩・琉球は、琉球-薩摩の貿易を、「琉球-トカラ(吐加羅)」とするのです。この吐加羅は、奄美大島に最も近い現在の宝島です。トカラを琉球の「属島」とし、薩摩役人を宝島人とするのです。
薩摩藩の琉球支配が中国に露見する可能性としては、琉球国王継嗣を認証する冊封使による滞留期間時の発覚と、中国への漂流・漂着による発覚がありました。
前者について。冊封使節は500~600名、滞留期間は半年にもおよぶ大集団です。1683年の使節に対して、「宝島人」としますが、髪形や着衣などから日本人と見抜かれていました。1718年には、七島郡司からの「宝島人」を使節に会わせたいという申し出を、藩は却下しています。「宝島は琉球属領」が通用しないとの判断です。以後、使節来航の際は、薩摩船は他港に移され、薩摩役人も別村に隠れるなどの隠蔽策をとります。
後者について。1815年には、大島代官所の勤務終了の役人など49人や砂糖32万斤などを積んでいた船が中国の広東省に漂着しました。この時、この役人は「宝島在番勤務」と称しました。奄美(琉球王国領)の船が薩摩に向かうのは不都合だからです。漂着時の対応問答集として、唐琉球問答書(1738年)や旅行心得之條々(1753年)などがあります。
以上のことをしても中国には見抜かれていました(中国も体面上、それを可とした)が、「宝島人」のことは、幕末まで受け継がれました。たとえば、1853年のペリー来航以前に、琉球には英仏などがきて開港・貿易を求めます。幕府や島津氏はある程度認める考えもありましたが、冊封制度の関係から琉球自体は絶対反対で、その理由は「琉球は小国で、産物も少なく、日用品等も中国や度佳羅(とから)島から買い求める程であり、貿易をする力はない。」といったようなものでした。また、28代島津斉彬も当初は造船を重視しますが、後には汽船(軍艦)購入に傾きます。1858年に琉球でフランスと交渉しますが、汽船購入は度佳羅商人の依頼とし、交渉に当たった家臣も度佳羅島医師と称しました。交渉は成功しますが、斉彬死去のため購入は中止となりました。
なお、1824年には、イギリスの捕鯨船が宝島で牛を掠奪しようとした事件がおこり、翌年幕府の異国船打払令につながりました。
(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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