2024年12月28日( 土 )

続・鹿児島の歴史(1)~神話・熊襲について~

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 以前、島津氏を中心とした鹿児島の歴史について10回、奄美・トカラについて7回のシリーズで述べました。今回は、前2シリーズではふれなかった内容や、古代、流人、文化面、西郷・大久保以後の政治家・軍人等について述べます。

 まず、神話について。いろいろな神話がありますが、代表的なものとして日向(鹿児島も含む)への天孫降臨神話があります。天照大神の孫のホノニニギが日向に降臨し、その曾孫のイワレヒコが東征し、大和地方で神武天皇として即位するというものです。4世紀、近畿に起こった大和朝廷が、なぜ朝廷誕生の神話を日向とする必要があるのでしょうか。神話は8世紀初頭につくられた古事記・日本書紀に出てきます。8世紀初頭につくられた物語ということになりますが、神話は当時の政治状況を反映したものと考えられます。たとえば、天照大神(祖母)が孫のホノニニギを降臨させるのも、祖母の持統天皇から孫の文武天皇へ、祖母の元明天皇から孫の聖武天皇への皇位継承(ともに子は早死)を正当化させるものといわれています。当時皇位継承は、親‐子‐孫ではなく、兄‐弟の継承が一般的でした。8世紀初頭といえば、南九州では、隼人が大和朝廷に抵抗し、最後の大規模な反乱をおこした時期(後述)です。天孫降臨の地は、大和朝廷と隼人の中間の地ともいえます。大和朝廷が隼人を支配下におくための神話とも考えられます。ホノニニギの子である山幸彦と海幸彦の神話についても、山幸彦が大和朝廷につながり、海幸彦の子孫である隼人が天皇の守護人となる理由を説明したものといわれています。

 神話で、現在も鹿児島の地名に残るものとして、ホノニニギが向かうカササ(笠沙)、ホノニニギと結婚するアタツヒメ(阿多)、イワレヒコと結婚するアヒラツヒメ(吾平・姶良)等があります。

 神話と関連して、鹿児島には可愛之(えの)山陵・高屋山上陵・吾平(あいら)山上陵の3山陵があります。それぞれホノニニギ・ヒコホホデミ・ウガヤフキアヘズが葬られていますが、山陵の治定は明治7年です。以前は日向を中心とする南九州各地にありましたが、3山陵とも鹿児島県内に決定しました。明治政府(特に教部省)の中心にいた鹿児島出身者の存在が影響したと考えられます。

 次に熊襲です。熊襲については、はっきりしないことが多く、「猛(たけ)き」性質をあらわす「クマ」と「ソ」という地域名という考え(本居宣長「古事記伝」)や、「クマ」は肥後南部の球磨地方で「ソ」は大隅の「曽於」という考え(津田左右吉)もあります。景行天皇やその子の日本武尊(やまとたけるのみこと)のクマソ討伐が中心で、クマソという言葉は隼人よりも早く用いられたようですが、天皇の遠隔地への巡幸という歴史的事実や地名などから、7世紀後期の状況を反映しているといわれています。
 なお、「鹿児島」の初見は、続日本紀764年の「麑島信尓村(かごしまのしにむら)」です。信尓村は行政単位ではなく、自然村落としての集落です。

(つづく)

<プロフィール>
 1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。

▼関連リンク
鹿児島の歴史
奄美・トカラの歴史

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