続・鹿児島の歴史(2)~隼人について~
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隼人については、今でも「薩摩隼人」と言ったり、名前につけたりもします。鹿児島市には「催馬楽(せばる)」という地名がありますが、隼人が宮廷警備とともに催馬楽(古代歌曲の神楽)を演奏したためです。隼人は、南に住み俊敏で守護の役割をもつ人々という意味で、7世紀末の天武天皇のころに本格的に使われるようになったとされています。
日本書紀677年の項に、多禰島人をもてなしたときに大隅隼人と阿多隼人(薩摩側)が相撲をとったという記録があります。朝貢により支配範囲の広がりを示すとともに、天武天皇の徳の高さを示す効果がありました。朝貢の形式は、貢物を献上し都に滞在、朝廷の諸儀式に参加し、何年か後に次の集団が来ると帰郷するというものです。
701年、大宝律令が完成すると、政府は郡司の選任と戸籍づくりを推進しますが、南九州では隼人の抵抗がありました。翌年には抵抗を抑え、「戸を校し、吏を置」いています。前者は戸籍の作成を、後者は国司と郡司が任命されたことを示しています。薩摩国の成立になりますが、実際に戸籍が作成されたわけではありません。同年、国司は、柵を設置し、守備隊を置くことを申請し、認可されています。
712年には、隼人の訴えにより、薩摩・大隅の隼人朝貢を6年ごとに変更しています。713年には、隼人の抵抗を抑え、日向国4郡を割いて、大隅国が成立しています。両国の経営をスムーズにするために、移民政策がとられました。薩摩国府が置かれた高城郡の6郷中4郷の郷名が肥後国の郡名に一致しています。大隅では豊前国から200戸、さらに豊後国大分郡からも行われました。隼人は一般公民ではなく、「夷人雑類(いじんぞうるい)」に近い位置づけでした。
720年には、隼人と政府との間で最大規模で最後の軍事衝突が起こりました。政府軍は大伴旅人を大将軍とし、兵1万人以上でした。翌年には終結しますが、723年、隼人に通常の2倍以上の624人の朝貢を行わせ、隼人の服属を確認しました。また、薩摩・大隅では班田が実施されていなかったため、730年に実施しようとしますが、混乱を起こすという大宰府の報告があり、断念しています。
「薩麻国正税帳」(736年の収支決算報告書)の一部が正倉院に残っています(報告書が10年間保管の後、二次利用として聖武天皇の写経事業に用紙転用されたため)。薩摩国では、2つの非隼人郡(出水郡と高城郡)と11の隼人郡の13郡があったこと、両者では財政状況にも違いがあったこと、国司巡行は主に非隼人郡であったこと等がわかります。当初は「薩麻」が正式名称です。
800年には、薩摩・大隅両国が班田制完全導入となります。翌年には大宰府に対し、今後隼人の上京必要なしの指令が出され、805年滞在期間が終了した隼人が帰郷して朝貢は終わりました。以後、朝廷の諸儀式には畿内および近国に移住した隼人の子孫(畿内隼人)が参加し、南九州の人々が隼人と呼ばれることはありません。
(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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