続・鹿児島の歴史(5)~南北朝~安土・桃山時代~
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前述した背景から島津氏は北朝方となりますが、南朝方となったのが郡司系の矢上氏や谷山氏、守護・地頭系の伊集院氏や鮫島氏等です。
南朝方としては、1342年に後醍醐天皇の第9皇子の懐良親王が、征西将軍として入薩します。谷山隆信の庇護のもと5年半生活しますが、貞久を破ったこともありました。その後菊池氏のいる肥後に行きますが、近畿では圧倒的に北朝が優勢だったのに対し、九州では九州探題の一色氏を破るなど南朝が優勢で、72年に今川了俊に敗れるまで懐良親王と菊池武光は、大宰府を拠点にします。その間、南朝方は南九州の反島津勢力の結集(一揆)を促し、71年島津氏は南朝年号を奉じたほどでした。
75年水島の変(了俊が少弐冬資を暗殺した事件)により、島津氏と了俊は対立関係になります。了俊も反島津勢力の結集(一揆)を図り、82年には了俊に帰順したこともありました。その後了俊が解任されたり一揆勢の離間策をとったりして、1409年に7代元久は薩摩・大隅の守護となります。元久死去の後は、弟久豊と伊集院頼久で後継者争い(元久は頼久の子を指名)が5年も続き、ほかの争いもあり8代久豊が守護となったのは元久死去の11年後です。9代忠国の時代には、敵対していた国人勢力に打ち勝ち、領国支配を安定させることができました。
1474年、10代立久が亡くなると、立久の従兄弟の国久と子の忠昌が後継をめぐり対立します。忠昌が11代となりますが、国久、季久(大叔父)、伊作久逸(ひさやす、叔父)が次々と反乱を起こします(85年までに降伏)。その後も反乱は続き、肝付兼久の反乱に苦慮し、1508年忠昌は自刃します。3子(忠治・忠隆・勝久)の在任期間も短く、15代貴久を養子に迎えて、ようやく国内統一・九州制覇の足がかりをつかみます。
秀吉の朝鮮出兵に関することで2件紹介しておきます。
まずは、梅北国兼の反乱について。1592年に家臣の国兼が出兵に反対して、肥後国で反乱を起こしました。すぐに鎮圧されますが、16代義久の弟歳久の関与が疑われ、秀吉から自刃を命じられています。歳久は無関係でしたが、反秀吉勢力の中心人物とされていました。
薩摩・明合力計画について。明末の政治家徐光啓の文書に、許儀後(きょぎご)から、文禄の役の最中に薩摩と明が協力して秀吉を討つという申し出があったと記録されています。
許儀後とは義久に仕えていた医師の許三官で、許は、出兵計画を明に伝え、秀吉を激怒させたこともありました。明の工作員が薩摩に入り、名護屋城の偵察等もしており、明は計画を真剣に検討していたようでもあります。許が明と接触し続けていたのは確実で、義久も許をその後も重用しています。
日本側に史料は残っていませんが、島津氏は長年海外貿易に携わっていたこと、義久は出兵に消極的であったこと等もあり、具体的な計画があったのであれば、義久が関わっていた可能性は否定できません。
(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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