続・鹿児島の歴史(6)~江戸時代の財政面から~
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江戸期の薩摩藩の財政については、木曽川治水工事や500万両の借金の250年賦償還法等が有名ですが、藩の特徴をうかがい知ることもできるため、もう少し詳述します。
薩摩藩の財政は江戸初期から厳しいものでした。1619年には家臣に対して上知令(土地没収命令)を出し、34年の藩債は約13万両、38年19代光久の襲封時には江戸での起債が不可能になっていました。
ちなみに、薩摩藩は72万石ですが、これは籾高で米高では36万石です。半分以上は給地高(家臣分)で実際の蔵入高(収入)は13万石(1石=1両)程度です。1710年には約35万両、京都・大坂が中心で国元が約7万両弱です。55年の木曽川の治水工事で約40万両かかり、25代重豪襲封の翌年には約89万両となっていました。さらに、1819年には大坂の銀主が藩への貸出を一切拒否したため、以後は高利貸しに頼る他なく、27年には一挙に500万両の負債を抱えることになるのです。250年賦償還法は、三都の藩債のみであり、国元藩債は、元利とも渡さず、証書差出者を士分取り立てという身分上の恩典のみでした。
財政に関するものとして、ここでは婚礼と貿易を考えます。婚礼では、1729年に22代継豊が綱吉の養女竹姫(清閑寺家の娘)と結婚します。竹姫は広大な御守殿住まいで御付女中は二百数十名でした。竹姫は重豪の養育にあたり、後年の開化政策は竹姫の影響ともいわれますが、重豪夫人に義弟一橋宗尹の娘を迎えます。娘が亡くなると、妊娠していた側室の子どもが女子なら徳川家へ、と遺言します。これによって一橋治済の嫡男豊千代と茂姫が婚約します。後年豊千代が家治の養子となり11代家斉、茂姫は御台所となるのです。ほかに大名家との婚姻も多く、出費増の一因となりました。
なお、13代家定の御台所となった篤姫については、将軍家から求められたものであり、初めから将軍後継問題を見据えたものではないとされています。
利益を上げるための(密)貿易についてです。薩摩藩は琉球口貿易を大いに利用します。1818年には「唐物方」を設置し、貿易の一層拡大を図ります。25年には、中国人商人から長崎奉行へ、琉球口からの唐物が日本国内に出回っている、上質で安価な昆布・干鮑等の俵物が琉球口から中国国内に入っていて商売にならない、という訴えもありました。松前から長崎へ向かう船から途中で薩摩藩が俵物を買い上げていたのです。
35年には、勘定奉行から新潟付近で薩州船へ密売、薩州船を外国商船(琉球船)に仕立て松前へ、という上申書もあり、長岡藩領に漂着した薩州船から大量の禁製品も発見されました。36年には、江戸と新潟で密売組織が摘発されます。新潟で抜け荷が続き、藩の許可を得ていた富山の売薬商人の薩摩組は俵物を藩へ引き渡し、中国製の薬種を譲り受けていたことが発覚したのです。老中水野忠邦は39年に琉球口貿易の禁止、43年には新潟を天領としますが、まもなく水野が失脚し、46年には琉球口貿易は復活します。密貿易といいながら、全国レベルの大規模なものだったのです。
(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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