2024年11月13日( 水 )

続・鹿児島の歴史(7)~文化・宗教面から~

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 692年政府は阿多と大隅に僧侶を派遣します。寺院は隼人に対する教導を期待されていましたが、8世紀後期創建の薩摩国分寺は、東西・南北とも約120m程で築地塀で囲まれ、南大門・塔・金堂・講堂等がありました。仏教浸透の遺構として900年頃の蔵骨器や火葬墓も発見されました。その後島津家菩提寺の福昌寺や坊津一乗院、野田感応寺(初代忠久から5代貞久までの墓がある)等の大寺院ができ、名僧も輩出しました。

 学問では、1487年桂庵玄樹が11代忠昌に招かれて朱子学を講義しました。『四書』を日本語読みできるように和点をつけた『家倭和点』を著わすとともに、多くの弟子を育て薩南学派と呼ばれました。この学派を全国に広めたのが義久・義弘に仕えた文之で、その弟子に藤堂高虎や19代光久の侍読となった泊如竹、その弟子に藤原惺窩を批判(山川の正龍寺で文之点の和訓を見て、以後それを参考にした)した愛甲喜春等がいます。

 同様に忠昌に招かれたのが、雪舟高弟中第一の名手といわれた秋月等観(秋月は画号、等観は僧名)です。桂庵・雪舟・秋月の3人は、大内氏の援助を受け、同時期に明に渡りました。江戸初期まで薩摩画壇の中心となります。秋月は薩摩国内の高城城主の次男でした。江戸中期の画家として木村探元がいます。禁中の衝立や院御所の屏風等も手がけ、「薩陽法橋探元」の落款を勅許で得て、「見事探元」といわれました

 1549年キリスト教が伝来しました。ザビエルの鹿児島滞在は10カ月余でしたが、51年離日の際、鹿児島の青年ベルナルドも同行し、初の西欧留学生になりました。

 宗教で特徴的なものに一向宗の禁止があります。はっきりした理由は不明ですが、1597年の義弘の文書には「先祖以来御禁制」とあります。宗門手札改は7~8年ごとに行われましたが、弾圧があっても「かくれ念仏」が続き、18世紀以降各地に「講」が組織されました。なお、1828年の記録では、寺院1057カ寺で、曹洞宗や真言宗が多いでした。

 廃仏毀釈について。明治政府は単に「神仏分離」でしたが、薩摩ではすでに斉彬の考えで時報鐘以外の梵鐘で武器製造計画がありました。1066寺が廃寺、寺領は没収され、2,964人の僧侶が還俗(1/3は兵士へ)です。寺請制度がなく、一向宗の禁止で民衆との結びつきが比較的希薄でもあり、僧侶の社会的役割が小さかったことが背景にあります。なお、一向宗の禁制廃止は明治9年です。鹿児島県と宮崎県との合併があり、禁制ではなかった宮崎に禁教徹底は不可能と判断したためです。西南戦争時は政府軍のスパイと疑われたこともしました。明治末の寺院数150のうち129が一向宗(真宗)です。

 剣術の示現流について。1588年、上京した東郷重位(ぢゅうい)が天寧寺の僧善吉から伝授されたのが始まりです。本来は、自顕流でしたが、前述の文之が観世音菩薩経の「示現神通力」から改めました。道場は屋外で、柞(ゆす)の木を木刀に用いました。立木打の示現流と横木打を基本とする野太刀自顕流(薬丸流、重位の高弟の薬丸兼陳が創始した)があります。維新期の下級武士はほとんど後者です。

(つづく)

<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)

 1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。

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