2024年12月27日( 金 )

続・鹿児島の歴史(9)~流人について2~

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 県内の流人としては、江戸期の文化朋党事件(近思録崩れ)と嘉永朋党事件(高崎崩れ、お由羅騒動)等が中心になります。

 文化朋党事件について。重豪の後継の26代斉宣は財政再建を図り、1807年近思録派と呼ばれた樺山主税・秩父太郎等を抜擢します。重豪時代の事業縮小だけでなく、幕府に15万両借用や参勤交代の15年間免除等を願い出る等無謀な計画もあり、重豪の怒りを買い、09年斉宣は隠居、近思録派は失脚しました。13人が切腹、100人余が遠島・御役御免等の処分を受けました。

 遠島者の1人に伊地知季安がいます。季安は後に子の季通とともに膨大な『旧記雑録』(とくに薩摩藩の研究には欠かせない史料で、『鹿児島県史料』として県より刊行)を残しました。また宝島に遠島となった本田助之丞は、24年の宝島事件(英国捕鯨船が上陸し、牧牛を椋奪しようとした事件。翌年の幕府の異国船打払い令の一因ともなった)の働きが認められ、「種子島へ島替」です。

 嘉永朋党事件について。1850年、40歳を過ぎても藩主になれない斉彬擁立派による反対派の暗殺計画が発覚し、首謀者の近藤や高崎ら13人が切腹、17人遠島等、50余名が処罰されました。斉彬自身は擁立派の性急過ぎる動きを懸念していたともいわれます。主な遠島者に名越左源太(貴重な奄美研究書の『南島雑話』等を残した)や大久保利通の実父利世、首謀者の嫡子だった近藤金吾(沖永良部島へ)と高崎正風(奄美大島へ、明治政府に歌人として重用)等がいます。

 その他の遠島としては、「公儀御預」として藩外の流人、「親類の願い」に依るもの、一向宗やキリシタン禁制に関するもの、ユタ(神がかりして口寄せし病気治療等を行った)への弾圧等があります。琉球王国下のノロは利用価値もありましたが、ユタは不安や迷信を煽る存在とされたためです。1816年と64年には、徳之島の母間村と犬田布村の農民の騒動(一揆)があり、関係者が他島へ流罪です。

 その他、個人名では、江戸で藩留学生の監督責任を問われた重野安繹(歴史学者、東大史料編纂所設立)、「名刀波平」を偽作したとして刀鍛冶の奥元安、禁漁区の山で雉を射ったとして示現流藩主指南役の東郷藤十郎、藩兵法(甲州流)を批判した軍学者の徳田邑興、書家の川口雪蓬(配流中に西郷と交流があり、赦免後西郷家の家令)等がいます。なお、西郷も2回遠島ですが、1回目は単なる「潜居」で、2回目は久光の勘気にふれた遠島処分です。2回目の時は同理由で村田新八(大久保の後継者と期待されながらも西南戦争で西郷軍として戦死)もいます。

 1852年の記録では、奄美大島で人口約4万人弱のうち流人346人、徳之島で流人195人、沖永良部島で流人82人等となっています。遠島後は赦免されたり島で亡くなったり様々ですが、知識人や何らかの特技をもっている人も多く、私塾を開く等島民に影響を与えました。

(つづく)

<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)

 1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。

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