続々・鹿児島の歴史(2)~大隅国と多禰嶋の成立~
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683~685年、政府は国境を確定し、これまでの国造支配単位のクニから山川等を国境とし、国司を派遣する国(令制国)を設定します。西海道では、690年の筑後国が令制国の初見で、その後6カ国ができます。大隅地方は日向国に属し、薩摩地方は肥後の影響下の出水を除き、日向国の一部でした。
698年、政府は覓国使(べっこくし)を派遣し、令制国の設置と南島路の開拓を図ります。前者については、薩摩半島の薩末比売(さつまのひめ)や衣評督(えのこおりのかみ)である衣君県、大隅半島の肝衝難波(きもつきのなにわ)らが抵抗し、翌年処罰されています。評は国の下位の行政単位で、大宝律令で郡となります。699年には、政府は軍事拠点として、三野(宮崎の西都市付近)・稲積(霧島市付近)城の修築をしています。後者については、7世紀末までに掖玖人(屋久島)・阿麻禰人(奄美大島)・度感人(徳之島か)等が朝貢しました。
702年、薩摩国が成立したことは前述しましたが、多禰嶋(たねとう 主に種子島と屋久島)も成立しました。嶋は国と同等の行政単位です。多禰嶋は、種子島の能満(のま)・熊毛郡と屋久島の馭謨(ごむ)・益救(やく)郡の4郡です。733年、郡司以下1,116人に姓が与えられています。824年には大隅国に併合されますが、その際、郡も合わせ熊毛(種子島)・馭謨(屋久島)の2郡です。なお、益救神社は、最南端の式内社(延喜式のいわゆる神石帳に記載されている神社)です。
大隅国は、隼人の抵抗を抑え、日向国を分割して、713年、肝坏(きもつき)・曽於・大隅・姶ら(ころもへん+羅)の4郡で成立です。翌年には「野心(野蛮な心性)」な隼人の教導として、豊前国と豊後国大分郡から移民させ、移民を中心に曽於郡を分割して桑原郡設置(国府所在地)です。さらに755年菱刈郡が新設され、824年には多禰嶋の熊毛・馭謨の2郡を加え、8郡です。
養老~天平年間(717~749)、薩摩国は13郡25郷60里、大隅国は5郡19郷27里です。平均郷数では、薩摩国の隼人郡は2.2郷、非隼人郡は5.5郷、大隅国(除多禰)は5.3郷です。大隅国では桑原郡が8郷で最大で、次が大隅郡の7郷、他は2~5郷です。壱岐・対馬を除いた西海道平均は5.4郷で、薩摩国の隼人郡の小ささが目立ちます。首長層の支配領域が狭いためで、大隅国は大勢力者がいたためです。
律令制下の国嶋は、大・上・中・下の4階級に分類されますが、大隅・薩摩・多禰は、対隼人・南島政策、遣唐使入唐航路維持等の重要性のため、中国とされました。ただし、財政規模は下国以下でした。745年には公廨出挙本稲(くがいすいこほんとう 人件費などをまかなうための出挙の元手)は中国は20万束、下国は10万束とされましたが、大隅・薩摩は各4万束でした。9世紀初頭でも6万束で、国分寺維持財源の2万束の出挙はそれぞれ日向・肥後国で行われていました。
785年、大宰府管内の、特に日向から薩摩・大隅への浮浪が問題化しました。賦役令辺遠国(ぶやくりょうへんえんこく)条の適用をうけて、隼人の住んでいる薩摩・大隅の農民の税負担が日向より軽かったことが原因です。
なお、766年桜島噴火により神造島(しんぞうじま)ができ、788年には曽於郡の曾乃峯(現在の霧島山系のいずれか)が噴火の記録があります。
(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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