続々・鹿児島の歴史(5)~九州統一と大隅~
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南北朝期から戦国期にかけて、島津氏においても一族や他国人の反乱・抵抗が相次ぎ、必ずしも安定していなかったこと、15代貴久が実久との家督相続争いに勝ち、薩摩・大隅の統一に向け動き出したこと等は前述しました。
鎌倉以降大隅の有力な一族として、肝付氏と禰寝(ねじめ)氏がいます。
肝付氏について。平安末期以降に肝付郡を根拠地にしますが、鎌倉期は鎌倉御家人ではなかったため前述した名越氏の強い圧迫を受けました。南北朝期の兼重の代には、南朝方として宮崎方面まで進出したり、鹿児島で東福寺城において5代島津貞久と争ったりしました(貞久が勝ち、以後東福寺城は島津氏の根拠地になったことは前述)。戦国期の兼続は、当初島津氏と血縁関係を結んだり、日向の伊東氏とも友好的で、その所領は南大隅から日向の南部までおよび、島津氏に脅威を与えるほどでした。後には島津氏と対立関係となり、1574年臣下となります。島津氏の大隅国統一です。江戸期は喜入(鹿児島市南部)を所領とします。禰寝氏について。鎌倉~戦国期の約400年間禰寝院を根拠とした一族です。南北朝期は畠山直顕や5代貞久等の北朝方で、肝付氏や楡井氏と対立しました。戦国期には当初、肝付氏や伊東氏と一揆して島津氏と対立していましたが、1573年16代義久の勧誘に応じ、島津方となりました。これは最後まで反島津勢力となっていた肝付氏に大打撃となりました。屋久島をめぐって種子島氏との抗争もありました。太閤検地で薩摩の日置郡吉利を所領とし、子孫は小松氏を名乗ります。なお、明治維新期の小松帯刀は、肝付氏に生まれ、小松氏の養子となった人物です。
島津氏の三州統一と九州制覇について。時系列では、16代義久は1569年北薩の菱刈氏、70年入来院・東郷氏を降伏させ、薩摩国統一です。大隅統一は前述のように74年。日向の伊東氏は、72年木崎原合戦で島津氏に敗れ、77年大友氏を頼り豊後に逃走します。三州統一です。78年耳川の戦いで大友氏を撃破、81年には弟の義弘が肥後の相良氏を破り肥後南部を直轄領へ、84年には弟家久が有馬氏と協力して龍造寺氏を島原半島で破り、龍造寺氏を帰服させ、85年には肥後国全体を領国化しています。86年には、大友氏の豊後を攻め大敗させました。秀吉の九州出兵は87年ですが、それ以前に大友氏との和平を命じていました。島津軍は日向根白坂で秀吉の弟秀長らに大敗し、義久は剃髪して川内の泰平寺で秀吉に降伏しました。秀吉は、義久に薩摩、義弘に大隅、義弘の嫡男久保に日向国1郡(諸県郡)を安堵しています。
種子島氏と鉄砲伝来について。種子島氏は、鎌倉中期以降、平有平の子孫の後を受けて在地領主となりました。1408年には屋久島と恵良部島(口永良部島)を恩賞として島津氏より与えられました。一時知覧に領地替えですが、1599年戻っています。1543年、鉄砲伝来です。中国人倭寇の王直の船に同乗していた3人のポルトガル人(3人の氏名までわかっている)が伝えましたが、背景として、アジアに進出したポルトガルは明との交易を拒否され、密貿易に転じたなかで倭寇とのつながりができていたことがあります。なお、奄美の喜界島と種子島は当時ポルトガル船の航路にあたっていました。ザビエルを乗せたポルトガル船は、鹿児島に向かう途中喜界島に寄港し、さらに種子島に寄り、8日間島に滞在し、種子島氏の歓迎を受けています。
(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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