続々・鹿児島の歴史(8)~奄美の砂糖1~
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奄美の砂糖については、主に江戸期の薩摩藩の財政と関連させて述べてきましたが、2回に分けてもっと総合的に述べたいと思います。
江戸期の奄美は、砂糖でいえば、1期(1609~1690年頃)、2期(1690年頃~1747年)、3期(1747~1830年)、4期(1830~1867年)に分けられます。
1期はサトウキビ導入以前です。奄美には1600年前後の慶長年間に川智(かわち)が中国からサトウキビの苗と栽培法を伝えたとの伝承がありますが、17世紀末まで奄美でサトウキビ栽培はありません。税は米・小麦でしたので、藩は積極的に干拓や開墾を行い、農業を活発にしようとします。「借金で百姓を下人にするな」等の制限をして農民の保護政策が盛んになされました。奄美の生産力と税の負担能力が格段に向上し、那覇世よりも税は重くなりましたが、経済的に成長していた時代です。なお、1607年に沖縄に伝わったとされるサツマイモは、1633年ごろには奄美ではすでに主食になっていました。
2期です。財政が厳しくなっていた藩は、屋喜内間切の横目(役職名)の嘉和知(かわち)と三和良(みわら)を琉球に派遣して、1690年ごろに製糖業を導入します。1713年頃から、サトウキビには農民への強制割り当てによる栽培と買い上げ政策が進められました。藩による、決められた値段で割り当てられた量を買い上げる形式でしたが、このころは農民の自由販売量もかなりありましたので、農民にとっても有利な作物でした。年貢としては米ですので、主産業は米ですが、なかなか成長しませんでした。奄美の米は最低ランクであり、社会に影響力のあったノロによるゲス(下衆=俗人)の立ち入り禁止地域が多く、土地改良が進みませんでした。
3期です。米では利益があがらないため、1747年換糖上納(米を黒糖に換算して納めること)が決定しました。次第に田が縮小し、きび畑が拡大します。これにともない、大島には琉球から、徳之島へは沖永良部島と与論島から米が送られました。砂糖の使い方は、(1)年貢、(2)藩の買い上げ、(3)農民の自由販売の3通りです。次第に(2)が増え、(3)が減少します。稲作は砂糖の犠牲となり、1755年、徳之島では島民3,000人が餓死しました。
また、農民が製糖までこなすキビ作農業を行うには大家族経営が必要でした。そのため下人も多くなります。製糖に関する下人を「家人(やんちゅ)」といいますが、年季は5年か10年で、ほかに「無年季家人」「膝素立(ひざすだち 両親とも家人で、一生家人)」もいました。身売代価は、砂糖1500~2000斤が普通でした。砂糖1斤=米5合でしたので、砂糖2000斤=米10石(約150kg)です。
この時期は、換糖上納は決まっても藩の方針が二転三転する動揺期です。1777年、1回目の専売制度が実施されました。利益を藩が独占するものでしたが、黒糖の流通で利益を得ていた薩摩商人の反対もあり、10年で廃止されました。2回目は1818年です。砂糖は薩摩の山川港で買い上げられましたが、利益を上げるには不十分な方法で、長続きしませんでした。19世紀には、藩内の他地域にも製糖を広げます。1848年には、垂水で約46万斤、種子島で約28万斤、桜島で約23万斤です。
なお、1767年には、大島で白糖製造も始めています。大坂では白糖の方が値段が高かったためです。後の幕末には、外国人技師を連れてきて4つの工場もつくりましたが、黄ばんだ砂糖しかできず、結果的に白糖製造は失敗です。
(つづく)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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