続々・鹿児島の歴史(12)~「鹿児島ぶり」~
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「鹿児島風流(ぶり)」について。本書は、江戸の講釈師の伊東凌舎が、参勤交代で帰国する27代斉興に随行して来鹿し、1836年から翌年にかけて藩内の様子を文や挿絵でまとめたユニークな紀行文です。凌舎が江戸に戻った後に出版され、挿絵は浮世絵にもなっています。薩摩富士と呼ばれる開聞岳の浮世絵は、頂上が冠雪しています。
当時の特徴的な様子・行事等をまとめます。読みやすいように口語訳します。
○三位様(25代重豪)の考えから、粗野・武骨の風潮を和らげるために、方言の代わりに上方や江戸の言葉を使わせ、上方から多くの芸子を呼び寄せ、170人程にもなった。近年は、騒がしく、武家の若い者のなかには心得違いするものもあり、多くは帰国させた。今は20人ほどである。鹿児島生まれの芸子も6、7人はいる。(重豪の開化政策の一環ですが、言葉については、江戸育ちの重豪には鹿児島弁がわかりにくかったという一面もありました)
○演武館で、犬追物があった。殿様の名代役もいて、烏帽子、大紋で鎌倉言葉を使っている。「犬が見えて候」などという。かぶら矢で追い、強く当たった犬は馬鹿になったようだ。(犬追物は弓馬鍛錬のもので、小笠原流と島津家の流とが伝わり、前者は室町、後者は鎌倉とされました。島津家のお家芸として自慢のものでした)
○桜島は高さ1里、廻りは7里である。三位様の時、ここで狩りをしたところ桜島の神様が怒って火事になったと伝えられる。そのため桜島では狩りはもちろん鉄砲も禁止である。温泉もある。桜島権現の神体は兎で、桜島の人は兎を耳長様という。(安永の噴火で、148人が死亡、多数の家屋の全半壊がありました)
○琉球人と酒盛りをした。言葉はよくわかった。笛を吹き、蛇皮線を弾いて清朝の踊り等を見せてくれた。礼儀正しかった。(琉球貿易の関係から、琉球館もありました。流鏑馬を見た時「琉球人もあまた見物のうちにまじわり居る、異風にて候。然る処、諸人の様子、琉人は常に見つけ居候間、めつらしからず。かへつて拙者共を皆見物致、内々笑居候」とも書いています)
○鹿児島の武士屋敷には、「殊の外」椿が多かった。(椿は、落花の様子が落首を想起させ、一般的に武家では嫌われました)
○西田橋、御門の橋、新橋、大手の橋、いずれも擬宝珠は慶長17年の銘である。(橋に擬宝珠をつけるのは、同年に幕府から禁止されたためです)
○吉野の牧で馬追があった。見物の男女が追々集まった。鹿児島の諺に、人が多く集まることを「御馬追のごとく」という。遠巻きに見える幟の数は、富士の牧狩ともいうほどである。城下の諸士300騎ほども乗馬で走り回る。名人もいる、下手もいる、落馬の人も多い。その後貝を吹いて合図をすれば、遠くの山から段々追い落とす。近くになるとときの声もすさまじく、馬は五、六百もいるだろう。
○当国は万事国中で用いる物は土地でできる。砂糖蔵は織物がある。築地ではたたらを踏み、鍋釜を鋳る。できないものは羽二重、ちりめん、数の子、昆布等である。金山で金を割り谷山で刀を打つ。であれば、他国への通路がなくても不自由はない。ないものは一向宗と遊女屋のみである。芝居、相撲は時々ある。このような状態なので、実に日本の別世界とでもいうべきである。(ちょっとヨイショしすぎです)
(つづき)
<プロフィール>
麓 純雄(ふもと・すみお)
1957年生。鹿児島大学教育学部卒、兵庫教育大学大学院修士課程社会系コース修了。元公立小学校長。著書に『奄美の歴史入門』(2011)『谷山の歴史入門』(2014)『鹿児島市の歴史入門』(2016 以上、南方新社)。監修・共著に『都道府県別日本の地理データマップ〈第3版〉九州・沖縄地方7』(2017 小峰書店)。ほか「たけしの新世界七不思議大百科 古代文明ミステリー」(テレビ東京 2017.1.13放送)で、谷山の秀頼伝説の解説などに携わる。関連キーワード
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