「国土学」から解く民主と独裁 「空気」が政治をする国(前)
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(一社)全日本建設技術協会会長
国土学総合研究所長 大石 久和 氏ロシアによるウクライナ侵攻が始まって後の各国の反応が明らかになってくると、世界の国々は「民主と独裁」に見事に色分けされていることが明白となった。このことは世界が「市民を経験したことがある民」の国と、「自由とか個人の尊重」などと言っていては統治できない「市民経験のない民」の国とに分類されることを示している。では、日本はどちらなのか。そして日本人はそのことをよく自覚しているだろうか。国土学の視点から日本人の政治を解き明かす。
進化論の悪癖 宗教と政治形態
民主と独裁について考えるとき、間違ってはならないのは「どちらが遅れている」とか「どちらが優れている」などという価値判断はできないことである。民族が属する国土の態様(広さや複雑さ)と構成民族の多様性や長い歴史的経験がそれを規定しているからである。
日本は「市民経験のない国」であり、そのため、民主主義国というには疑問があると私は考えている。これに対しては多くの反論がなされるだろう。歴史とは進歩への流れをともなっているのであって、独裁的な統治はやがて個人の自由や意見が尊重される政治へと「進歩していく」ものという考えがある。日本も不自由だった封建時代を経て、今では独裁体制ではなく、個人の自由もあるではないかというわけである。
イギリスの文化人類学者のエドワード・タイラーは、進化論の研究者でもあったからなのか、「宗教はアニミズムから多神教へ、そして一神教へと進化する」と述べているが、これは間違っている。そして政治形態に関する「独裁から民主へ」の進化論も誤っていると私は考える。
まず宗教についてだが、それを信じる人々の経験が選択させているのである。命令する強い神を必要としたから唯一絶対の神を必然としたのである。つまり、紛争死を通じて世界を理解した人々が一神教を生み出して信仰した。そして紛争の程度が厳しく激しいほど、その民族はより命令の度合いの強い神を求めたのだ。
紛争死をほとんど経験することなく、最愛の人の死を予測することもできず、因果の説明もできない自然災害による死を頻繁に経験してきた日本人には、命令する神など絶対にお断りであり、ただひたすら人々を救済する仏を必要としたのだ。命令する強い神の力によって一糸乱れず団結して立ち向かわなければならない敵との紛争など、ほとんど経験しなかったからである。
政治形態の選択もこれと同じである。異民族から頻繁に侵略される広大な国土をもち、そこに数え切れないほどの多種多様な民族が混在するとなると、「異なる意見や考えを尊重することで成り立つ多様性を受け入れる制度」など導入できるわけがないのである。
国土学から考える民族の経験
国土学とは、「国土に働きかけなければ国土は恵みを返さない」「国土により良く働きかければかけるほど、国土はより多くの恵みを返してくれる」との考えを基本にしながら、国土の態様とその国土に暮らす人々の長い時間にわたる経験を通じて、歴史や民族の成り立ちを考えようとするものである。
そのような視点から世界の人々の「国土への働きかけ」を眺めていると、日本以外の長い歴史をもつすべての民族(つまりユーラシアの人々、朝鮮半島からイギリスに至るまで)が行った国土への働きかけのなかで「日本人だけがやっていない」ものがあることに気付いた。それは、社会の基礎構造としてのインフラストラクチャーである都市城壁の建設経験である。都市城壁をもたなかったことで直ちにわかるように、世界的に見ても日本人だけが「都市封鎖」の経験をもたず、そのため新型コロナウイルス騒動においても封鎖をめぐり議論は行ったものの、結局は封鎖を受け入れることができなかった。その理由は、長い年月に渡る歴史経験におけるユーラシアの人々との違いにあったといえよう。
このことは、日本人が「インフラストラクチャーの重要性・不可欠性」を理解できていないことも示している。世界の首脳、つまり大統領や首相たちが繰り返し、インフラ整備の重要性を説くのに、我が国の首相や党首クラスがこれに触れることが皆無なのがその証拠である。バイデン大統領がロシアのウクライナ侵攻直後の22年3月1日(米国現地時間)の一般教書演説で「アメリカはいまインフラ整備をやる時なのだ」と叫んだことをめぐり、インフラが理解できていない日本人には「なぜ、この時期にこれをいうのか」との疑問すらも湧かなかった。
さらに、最も重要なことは「日本人は“市民になったことがない”」という事実がもたらすものが何なのかということである。安全な都市城壁のなかで暮らす権利を得るには、城壁内の共同体構成のための責任を果たさなければならない。それは平常時には城壁のなかで大勢が仲良く暮らしていくための「全体益優先」(たとえば計画なくして建築なし)を受け入れることであり、いざ紛争となったときには「城壁内に住む全員の責任分担」を受容することである。
こう考えてくると、形式的形態はともかく、この経験を欠く人々で構成されているこの国が、本来の意味で「民主国家」というカテゴリーに属すると断言できるか、かなり難しい気がするのだ。1人ひとりの個人が「おかしいものはおかしい」との声を挙げなければならないという政策の意思決定者としての自覚をまるで欠いている、そのような人々で構成された国が、民主国家といえるかということなのだ。
このようなことをいうと、「そんなバカなことがあるか、我々は1925年には普通選挙制度を確立したし、46年には国民主権も制度化されたではないか」と反論を受けるに違いない。
(つづく)
※本稿は『表現者クライテリオン』2022年11月号(啓文社書房)の筆者論文「『危機感のない日本』の危機 民主と独裁 『空気』が政治をする国」に加筆修正したものである。
<プロフィール>
大石 久和(おおいし・ひさかず)
1970年京都大学大学院工学研究科土木工学専攻修士課程修了、建設省入省。99年道路局長、2002年国土交通省技監(04年退官)。(財)国土技術研究センター理事長、(一財)国土技術研究センター国土政策研究所所長、(公財)土木学会会長などを歴任。16年より(一社)全日本建設技術協会会長、19年より国土学総合研究所長。15年瑞宝重光章受章。著書に『国土と日本人―災害大国の生き方』(中公新書)、『「危機感のない日本」の危機』(海竜社)、『「国土学」が解き明かす日本の再興―紛争死史観と災害死史観の視点から』(経営科学出版)など多数。関連キーワード
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