福岡大学名誉教授 大嶋仁
3.はじめに技術ありき
前稿で紹介した山縣俊夫氏はすでに退職し、現在は家の近くの小学校の「理科室のおじさん」をしている。子どもたちの理科の実験の手伝いをし、「あり合わせ」の物を使って何かをこしらえる工夫を教えているのだ。この工夫こそ、氏が「ものづくり」の基礎として重視する「技術」である。
氏は長いあいだ、コンピューターを使ってシステム設計をしてきた。しかし、コンピューターを離れても「理科室」で活躍できるということは、氏の原点にあるのは「理科室」的発想、すなわち「手仕事」だということだ。
この手仕事であるが、人類は両脚で立って歩ける。そこで「手」を使うことができるようになった。手を使うことでいろいろな物をつくり、生活を便利にすることができるようになったのだ。
とはいえ、言語をもったことで思考力が拡大したことも事実で、これで「頭」がはたらくようになった。人類がほかの動物とちがうのは言語をもっているからだと思う人は多いのは、理にかなってもいるのである。
だが、言語に刺激された「頭」は抽象世界に向かいすぎる危険がある。一方の「手」はいつまでも具体的世界にとどまるので、人類は言語と手仕事の2つでバランスをとってきたといえそうだ。
近代文明の中心は科学だが、その根底にあるのは「頭」の重視である。手先が器用であるよりは、計算が速く、概念操作が得意な「頭」が勝利する。それゆえ、近代教育では論理的思考と数学を重視し、図画工作は主要科目とならない。
山縣氏に話を戻すと、氏はコンピューターを用いて仕事をしてきたので、一見すると「頭の人」である。しかし、子どものころから無類に「ものづくり」が好きだったところから、「手の人」でもある。むしろ、「手」を基礎にして、あとで「頭」を使った人といえるだろう。
ところで、手でものをつくるといえば、人類学者レヴィ=ストロースのブリコラージュが思い出される。ブリコラージュとは「あり合わせの材料で何かをこしらえること」であり、これを彼は近代のエンジニアリングと比較し、ブリコラージュをもっと重視しろと言っている。
彼によれば、近代のエンジニアリングは、ある目的を設定したら、それにそって資材を集め、それらを用いて設計図どおりにものをつくる。一方のブリコラージュの制作目的は、手もちのものを見て決まるものであって、設計図はなく、創意工夫で何とかものづくりを達成するものだ。前者は論理的必然性をもつが、後者には「思いがけなさ」があり、そこに人間臭がただよう。
レヴィ=ストロースは、近代のエンジニアリングを否定してはいない。ただ、ブリコラージュを身につけることのない人間は「頭でっかち」になる、と言いたかったのである。「頭」重視の近代への警告であり、「手仕事を基礎にした文化」をもっと保護しろと言いたかったのだ。
さて、先の山縣氏の論はレヴィ=ストロースの論と似ているところがあるが、氏によれば、エンジニアリングもブリコラージュもともに「ものづくり」であることに変わりはなく、そこでは常に「技術」と「システム」が重要になってくるから、工作機械をつくるのも、紙風船をつくるのも、本質は同じということになる。
もっとも、そういう氏も、産業革命によって始まった機械的エンジニアリングと、IT革命によって生まれた情報通信技術とを区別している。この区別は重要で、前者が資本家と労働者の対立を生み出したのに対し、後者が万人を相互に結びつけるはたらきをもつという違いがあるのだ。氏は、明らかに後者の方を大切にしている。
そういえば、レヴィ=ストロースも「これからは情報科学の時代なので、手仕事の科学が復権する」と言っている。やはり、山縣氏の発想に近いのだ。
地球社会というシステムをコンピューターを用いて設計し、その実現に情報通信技術を駆使しようという氏の提案は、世界中の若者がより良い世界の創造に共同参画できるという魅力をもつ。なるほど、世界中にスマホをもたない若者はなく、未来は彼らのものであるにちがいない。地球規模の直接民主制の実現を単なる夢と片付けてはならない。
詩人も画家も建築家も「システム・エンジニア」であり、何らかのシステムをつくり出す点で違いはない、と氏はいう。そこに共通するのは技術であるから、氏にとって「はじめに技術ありき」なのである。
芸術を西洋では「アート」というが、ギリシャ語では「テクネ」という。「テクネ」とは制作・創造を意味するから、「技術」と訳せる。すなわち、芸術は技術であり、技術は芸術なのである。
そのような技術観を基に、山縣氏は国家のかわりに複数の地域文化圏を置き、「世界連邦政府」を構想する。核兵器も国軍もない世界というこの美しい発想が、世界中のスマホに反映される日を想像してみる。いつその日が来るのかはわからないが、すでに希望の灯はともっているのである。
(了)