経済小説「泥に咲く」(12)うまくできたシステム
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主人公の経済的な挑戦と人間的な成長を描いた経済小説『泥に咲く』。手術からの回復、教育施設の創設、病院経営への進出といった多様な試練を経て、主人公は社会的出来事や人間関係を通じた自己発見の道を歩む。これは、経済的成功と個人的成熟の両面での自立を目指す主人公の旅路を描いた、実話に基づく成長物語である。
うまくできたシステム
勢事が案内されたのは、福岡市の郊外、田んぼが広がるなかにある倉庫跡だった。入り口には「ネイチャーホールの健康フェスティバル」というド派手な看板が掲げてある。
なかに入ると、ベニヤ板でつくった簡易な台の上に、ハッピを着た若い男女が、食品を並べているところだった。「卵3パック100円」「ボローニャのパン一斤10円」など、どれも普通の感覚ではあり得ない金額だ。
奥を見やると講演用のステージが設置されていて、その前の青いビニールシートの上に客席としてのパイプ椅子が並べられている。ざっと計算して300以上はあった。勢事は説明のつかない違和感を覚える。その正体がわからないまま、「俺の講演に、そんなに人が来るのか。しかも、こんな場所で……」と、思わず小首を傾げた。そこに、ここまでの運転手だった小早川が「さあ、先生、こちらにどうぞ」と声を掛けてきた。
小早川はネイチャーホールの社員で、まだ20代前半だろう。名刺の肩書には「イベントプロデューサー」と書かれていた。痩型で、いわゆる茶髪をオールバックにまとめている。チェーン店で買ったのだろう、ブラックの三揃いのスーツ。しかし、ネクタイは、ジャンポール・ゴルチエだ。コーディネートというよりも金額のバランスが悪い。
「先生、こんなところですみません」
促された場所は会場の一角をパーテーションで区切っただけのところで、机が1台、その前に客席と同じパイプ椅子が置かれていた。
「何か必要なものがあったら、遠慮なくおっしゃってください……と言っても、道中、コンビニもありませんでしたけどねえ」
小早川はそう言って、軽薄に笑った。
「ええっと、スケジュールをお伝えしますと……10時から食品の即売会があって、先生のご登壇は10時半です。今が9時半ですから、1時間ほどお時間がありますが、ここに居てくださってもよろしいですし、どこかでお待ちになっても……と言っても、コンビニもありませんでしたけどねえ」
同じテンションで笑う。
「いや、俺はここでいい。スライドの準備をしてから、本でも読んでいますから。よかったら、コーヒーをもってきてくれる?」
「喜んでえ」小早川はチェーン居酒屋の付け焼き刃の接客のような言葉を残して去っていった。
インスタントコーヒーの紙コップを手に、勢事がパソコンのなかの講演資料に目を通していると、会場がにわかにざわついてきた。腕時計を見ると9時45分。簡易な「楽屋」を出た勢事の目に飛び込んできたのは、入り口の販売コーナーの人だかりだった。高齢者が大半で、誰もが黄色いビラを手にしていた。拡声器をもった小早川が「並んでください」と声を張り上げている。これから何が起こるのか。勢事は思わず、行列のほうへ歩いていった。
10時になった。福引で景品が当たったときのような鐘の音が鳴る。小早川が「いよいよ始まります!」と声を張り上げた。
「さあ、皆さん、卵、100円です。どうぞ、もっていてください。あ、その黄色い紙はこちらにもらいますからね。はいはい、そっちのバゲットもどうぞどうぞ。砂糖も安いよ! それでね、ご購入された方、白い紙のほう、受け取ってください。そこに、さらにお得な情報が書かれていますからね」
押し寄せる人、人、人。ある種の狂乱状態である。勢事は販売コーナーの内側のほうに回って白いビラを見てみる。
「本日、岡倉先生による健康セミナーを開催。このチラシをもった方だけ、無料でご聴講いただけます! 最後にお得な情報も!」
しばらくすると、販売コーナーから客席のほうへと、新しい行列が生まれる。スタッフは客から白いビラを回収し、代わりにビニール袋を渡しながら、靴を脱いでシートに上がるように促す。
なるほど、さっき自分が抱いた違和感はこれだったのだと勢事は納得する。そもそも倉庫跡のこの場所で、客に靴を脱がせる必要はない。それでもあえて、この過程をつくっているのは、客の「帰りにくい心理状態」をつくり出すために違いない。うまくできたシステムだと、勢事は感心した。
多すぎると思えた客席は、あっという間に埋まってしまった。その光景をぼんやりと眺めていると、走り寄ってきた小早川が「先生、そろそろお時間です」と言った。勢事はいったん楽屋へと戻った。
壇上に上がったのは小早川だった。
「さあ、皆さん、いいお買い物、できましたか――」
会場がざわつく。
「あれえ、お返事がないですね。ぼくが問いかけたら、『ハイ!』と返してください。いいですか?」
まばらに「は――い」の声が響く。
「もう一度、聞きますよ。皆さん、いいお買い物、できましたか――」
声の波は少しだけ大きくなる。
「ああ、声を出してくださった方、ありがとうございます。でも、ほら、皆さんで、お願いします。大きな声を出すのはね、健康にすごくいいんですよ。じゃあ、聞きますよ。今日、100円で卵を買った方!」
笑い声とともに、今度はかなり大きな「は――い」の波が起こった。
「おお、いいですね。それです、それ。お母さん、ラッキーでしたね。なんてたって、3パックで100円だもんね」
小早川は前列の老婦人に手を向けて話す。
「僕はね、また後で出てきますから、お母さん、僕のこと、忘れないでね」
これだけで会場に笑いが起きるのは、このセオリーが考え抜かれ、試され続けてきたことを証明していた。
「この後は、皆さんお待ちかねの、岡倉先生のご講演です。岡倉先生は作業療法士としてたくさんの患者さんを治してこられたんですが、なかでもとくに発達障害児を救おうと教育施設をおつくりになった、本当に、本当に、偉い先生なんです。すごい先生なんです。皆さん、最後に聞きますよ。先生のお話が聞きたい方!」
会場全体から合唱のような「は――い」が聞こえた。場慣れしている勢事も、これにはさすがに鳥肌が立った。大きな拍手のなか、勢事はにこやかな表情を意識的につくりながら、ステージに上がるのだった。
(つづく)
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