2024年07月21日( 日 )

経済小説「泥に咲く」(16)運命の女

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 主人公の経済的な挑戦と人間的な成長を描いた経済小説『泥に咲く』。手術からの回復、教育施設の創設、病院経営への進出といった多様な試練を経て、主人公は社会的出来事や人間関係を通じた自己発見の道を歩む。これは、経済的成功と個人的成熟の両面での自立を目指す主人公の旅路を描いた、実話に基づく成長物語である。

運命の女

 さゆみと出会ったのは、勢事がホステスたちを次々と籠絡しているころのことだった。その夜、勢事は関村と中洲のクラブにいた。そこにひときわ輝く女がいた。外見的な美しさでいえば、銀座の一流に匹敵する美貌であったが、もはや勢事が、その手の美しさに翻弄されることはない。素材さえ悪くなければ、女の外見は金をかければ磨かれるものであることを、勢事は熟知していた。しかし、さゆみは違った。ドレスでは隠しきれない人間としてのエネルギーが、勢事をどうしようもなく惹きつけた。

「関村さん、あの子、いいね」

 勢事はウイスキーの水割りをなめながら、あごで隣の席を指した。

「ああ、さゆみちゃんね。この店のナンバーワン」
「やっぱり」

 胸元にぎりぎり届くくらいの黒髪と、きめの細かい白い肌は清楚な印象だが、大きな瞳の奥に、強い意志の存在を感じる。たとえばそれは山の奥底で人知れずたぎっているマグマのような……。

「岡ちゃん、さゆみちゃんは無理かも」
「なんで?」
「ガードが硬いらしい。撃沈した男たちはね、まず……」

 関村は何人かの経営者の名前を挙げた。地元財界の有名人たちだ。

「ほう、なかなかやるね。じゃあさ、関村さん、作戦を立てよう」
「作戦?」
「そうそう。関村さん、よくこの店に来るんでしょ。俺のいない時に、『岡ちゃんはいい男だよ』って吹き込んどいてよ。俺はさ、しばらく気のない感じでいくから」

 関村は「いいね」と言って、いたずらっ子のように笑った。
 勢事の思惑通り、“共犯者”はいい仕事をしてくれた。初来店から3カ月、勢事にとっては4度目に店を訪れたときのことだ。勢事がボックス席に腰掛けると、あとを追うようにさゆみが隣に座った。

「ねえねえ」
「どうした?」
「私も関村さんみたいに、岡ちゃんって呼んでいい?」
「もちろん」

 さゆみの背後から、関村が親指を立てる。

「岡ちゃん、改めてよろしくお願いします」

 水割りを渡しながら、さゆみはしなをつくった。

「さゆみちゃん、今日はアフター、付き合ってよ」
「いいよ。誘ってくれてうれしい。私、お鮨が食べたいな」

 さゆみは自分の欲望をはっきりと口にする女だった。深夜まで開いている鮨屋で、軽く20カンをたいらげ、「あれだけの飯が、そんな細い体のどこに消えていくのか」と勢事を驚かせた。2人はその夜に結ばれた。

「ねえ、岡ちゃん、私と付き合ったら大変だよ」
「なんで?」
「私ね、嫉妬深いから」
「ヤキモチを妬かれるのは苦手だ」
「でもね、私、好きになったら、その人がほかの女と一緒にいるっていうだけで我慢できないの。私、普通じゃないから。覚悟しておいてね」

 言い返そうとした勢事の口を、さゆみは自分の唇でふさいだ。

 金という力を得た勢事は、他人からすれば傍若無人に振る舞っているように見えただろう。確かに自分の感情が赴くままに、言葉を発し、行動する性格は、より強まったかもしれない。ただし、それは自らが自由でいたいからであって、他人を支配したいわけではなかった。逆にいえば、勢事の言動は「誰からも支配されたくない」という意識の現れでもあった。だから嫉妬によって行動を制約されるなど、我慢がならない状況である。

 だのに、さゆみが燃やす嫉妬の炎の前では、勢事は沈黙するしかなった。

「誰、この女? なんで『おはよう』なんてメッセージを送ってるの?」

 さゆみは勢事の携帯電話を突き付けながら叫ぶような大声で詰問してくる。

「おはようくらい、誰にだって言うだろう」

 弁解する勢事の目を睨みながら、さゆみは携帯電話を真っ二つに折った。

「なめんな、きさま!」

 獣のように叫ぶ。

 携帯電話を折られたのは半年で3本目だと思いながら、勢事は深くため息をつく。もういい。今度こそ別れよう。そう思うのだが、夜になるとまた連絡をとってしまう。勢事は「前世からの因縁があるんだろう」と思うことにした。さゆみが怒りを爆発させるたびに、「今生の世では、彼女に奉仕し続ける運命なのだ」と自分に言い聞かせた。

 さゆみと付き合うようになってから、勢事はぱったりと女あさりをやめた。過去の女たちへの経済的な支援は続けていたが、新たな女を探す気が起こらなくなったのだ。さゆみの悋気の強さもあったが、同時に彼女以外の女じゃ物足りなさを感じている自分も認識していた。彼女自身が言った通り、さゆみはたしかに普通じゃなかった。

「私ね、実家がヤクザなの」

 そう聞いても、勢事はまったく驚かなかった。むしろ、それで納得できることが多くあった。さゆみが運転する車の助手席に乗っていたときのことだ。商用車が無理な割り込みを仕掛けてきた。さゆみはそれを許さず、ウインドウを下げると、「なめんなよ、リーマン風情が!」と、通りをゆく人たちの注目を一身に集めるほどの大声で怒鳴った。勢事は「こんな啖呵、とても堅気には無理だ」と感心したのだった。

 さゆみの突然の逆上の原因は、もう1つあると勢事は考えていた。覚醒剤だ。実家を飛び出したさゆみは東京や愛知をホステスとして流れ、悪い男との出会いから覚醒剤の中毒になっていた。彼女の親友がその事実を知り、引きずるようにして福岡に連れ帰ったのだという。友人の献身的な関わりによって中毒症状は脱したものの、後遺症はあるようで、感情の異常なまでの振幅は、その影響もあるのだろうと勢事は思うのだった。

 しかしそうした人間の暗部も、深みとして感じさせる魅力がさゆみにはあった。結ばれた日から1年後、勢事はさゆみを店から「水揚げ」した。

「さゆみ、これ受け取って」

 封筒には新札で200万円が入っている。

「なに、これ?」
「なにって生活費。これまで何もしてなかったやろう」

 勢事は「1年間はホステスに直接金を渡さない」と決めていた。どんな人間なのか、最低でも1年間は見ないとわからないというのが勢事の持論だったからだ。

 これはビジネスでも同じなのだが、一目惚れほど危ないものはない。この「惚れる」は「ボケる」と同義語だ。惚れている時期に物事を判断すると間違う。惚れている期間は長くは続かない。大事なことは冷静になってから決めるべきで、それまではじっくりと相手の本質を知ることが大切なのだ。

 だから勢事は「その人を信じるかどうかは出会ってから1年後」と決めていた。むしろ勢事には多くの人が最初から他人を過剰に信じようとすることが信じられなかった。単に安心したいだけなのか。そもそも馬鹿なのか。「最初から他人を買いかぶることは危険だ」と理解しなければ、生きていくことはできないのに、簡単に信じて、あとから騙されたと騒ぎ立てるのは、なんとも愚かなことだと思っていた。

 1年後にいったんジャッジしたら、勢事はその評価を簡単には変えなかった。その後、その人の状況が良くなっていったとしても、1年目のときの判断が正しいと考えて簡単に評価を上げない。逆に状況が悪くなったとしても、1年目のときの評価が高かったのならば、「挽回するチャンスはある」と見る。

 それは人間の本質は「今までのようなこれから」だと考えているからでもある。これだと人に対する判断で悩む必要がない。可能性とか、「がんばってくれそうか」といったことは余計な考慮である。たとえば40歳の人が、今まで以上の実績を上げることなんてありえないし、そもそも潜在的な可能性などわからない。すごくいい女が、突然、悪女になることはないし、その逆も起こり得ない。わかるのは、「今までのようなこれから」であることだけなのだ。

 さゆみとの関係も、だから「今までのようなこれから」で続いていくのだろう。そう判断しての200万円だった。

「こんなお金、私、いらないわ」
「いいから、とっとけよ」

 さゆみは困ったような顔をしながら、しかし、うれしさを隠しきれない様子で、勢事はささやかな満足感を覚えた。

(つづく)

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