2024年10月09日( 水 )

30周年を迎え、また超えて(13)経済雑誌『九経エコノス』発刊へ

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

上海初上陸・所感の一部

上海港 イメージ    前回触れた上海ツアーについて詳しく書いていくと、きりがないので省略する。ただ1点まとめよう。上海港についてである。「富士丸」で上陸したのは揚子江の支流にあった河川港であった。上陸する際には、1945年以前の上海のムードを思い浮かべていた。

 この年(89年)から15年後、上海の新しい港の視察に出かけた。港は揚子江の河口から20kmに位置する島々を開発して建設された。もちろん、陸上から橋の架設はされてあり、高速道路なみに充実している。港の広さが6,000haと聞き、“びっくり仰天”した。アイランドシティ(福岡市東区)の15倍もあるのだ。ここで強調したいのは、中国は驚異的なスピードでプロジェクトを実現するということである。

経済総合雑誌の発刊に向けて

 (11)で「与信情報の枠を超えて総合経済情報にエリアを広げよう」と志向し始めたと述べた。ただ、「経済情報誌を発刊するとなれば、俺自身と周囲の人材だけでは無理である」と考えていた。「誰か該当する人材をスカウトしないと発刊は無理」と見きわめ、「経済雑誌の“プロ編集長”を見つけること」を最優先課題とした。スカウトは87(昭和62)年あたりから始めた。ターゲットを絞ってみたが、経済雑誌の編集長にふさわしい人材は、この福岡においては稀有であった。

 ターゲットとなる人材に声をかけ始めて1年が経過した。88(昭和63)年になるだろうか。当時、地元では『夕刊フクニチ』という新聞が発行されていたが、経営危機となり、玄洋社の始祖・頭山満先生の一族が乗り込んできた。だが、残念ながら経営を改善できず、危機はさらに深刻化していく。それに従い、人材の流出が加速し始めた。そうした流れの過程で、当時の経済部長・Kと知り合った。ここから局面が大きく前進した。Kが編集長のポストを快諾してくれ、平成元年の初めに会社に辞表を提出してくれたのである。振り返ると「よくまぁ、俺の催促に応じてくれたものだ」と今でも感謝している。

89年10月、創刊に漕ぎつける

 89年4月から準備が本格化した。さすが、K編集長の顔の広さには脱帽した。同じく経済情報の発信に従事していたが、活動領域が全く違う。まず雑誌名について議論した結果、『九経エコノス』と命名した。雑誌名の決定とともに人員の確保、さらには向こう6カ月間における月刊誌の編集企画・記事についての議論を尽くした。筆者としてはありがたいし、勉強になった。編集・記者のプロたちが喧々諤々論じてくれるので、発刊の方にこちらが関与せずに済む。こちらは雑誌購読者の開拓と広告募集に専念すれば良かった。ようやく総合出版事業に携わることができたのである。

 発刊月が最高に恵まれていた。発刊した89年10月は、平成バブルのピークの時期に当たっていた。購読契約に対しては、既存客の80%が契約してくれた(年契約額が1万円足らずと高くなかったこともある)。広告の方は1ページで25万円の対価をいただいた。この九経エコノス事業において営業専属の社員はいなかった。東京経済の社員たちが、それぞれ営業契約を取ってきていた。さほど営業能力のない小田(仮名)氏などが毎月4社4ページの営業実績を上げており、少なくとも10万円のコミッション報酬を得ていた。それもこれも、バブル景気でクライアントたちが節税対策として付き合ってくれたからであろう。

九経エコノス発刊で学んだこと

 「九経エコノスを発刊し、業務に従事して学んだことで、得たメリットは?」と自問自答したところ、真っ先に浮かんできたのが「広い人脈を構築できた」ということである。まず東京経済の企業調査先は主に建設・不動産業界が多かった。だから筆者の得意先はこの業界に偏っていた。その世界に関しては隅々まで、知り尽くしていた自負はあった。だが、福岡の経済界全体で見れば偏り過ぎていた。

 具体例を挙げよう。「博多21の会」という今年40周年を迎えた経営者の集まりがある。初代および2代目代表は「博多・福岡の為になる政治。社会テーマ」を掲げ、社会的なキャンペーンを連呼してきた。「24時間利用可能な福岡空港を建設しよう!」「新宮沖合を埋め立てて、空港を建設しよう」と一大キャンペーンを張ったが、残念ながら世論づくりには至らずに挫折してしまった(この経緯、関わりについては次回触れる)。「21の会」内でも方針をめぐる多様な意見が噴出してしまう。

 そこで早速、3代目代表を直撃取材した。3代目は下記のように断言した。「これからの21の会は政治・社会闘争はしません。仲良しクラブで進むつもりです。代表者は1期2年で交代します」。記憶によれば92(平成4)年のことであったと思う。その後、「21の会」は、3代目代表の発言通りに運営されている。こういう突撃取材は「与信管理情報誌では難しい」。しかし『九経エコノス』という経済雑誌であれば、即座に取材して記事を発信できる。

 同様の取材を積み重ねたことで、交際範囲が広がり、福岡経済界への目配りができるようになった。また、幅広い活動が可能となり、人脈の形成に広がりがでてきた。

(つづく)

(12)

関連キーワード

関連記事