2024年10月16日( 水 )

30周年を迎え、また超えて(15) バブル崩壊(前)

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バブル弾ける転換点~1990年9月

親不孝通り イメージ    シリーズ(13)で記述した通り、セールス能力が劣っていた社員が『九経エコノス』広告4P分(100万円)を取れた時代であった。銘柄はすべて不動産・マンション業者7社である。2カ月サイクルで1回掲載するクライアントをもっていた(もちろん、毎月掲載する企業もあった)。説明した通り、広告主にとって25万円の出費など「屁の河童」であった。土地を転がすだけで2億~3億円の儲けを簡単に得ていたのであるから気前が良すぎた。地上げ=土地転がし成金が幅を利かせていたのである。

 東京では1989年秋にバブル崩壊の前兆が現れ始め、「福岡にもいずれ飛び火するぞ」と囁かれ始めた。その日がついにやってきたのである。9月末に「協和」が倒産したのが幕開けとなった。この会社はもともと、鉄骨加工業者であった(当時の社名・協和鉄工)。福岡県でも大型工場投資を行っていたが、商号を変更して地上げ・不動産業に奔走し始めた。展開エリアは大阪から西日本一帯であった。倒産時には宇美町で住宅用地の大規模開発計画を進行中であった。

九州リースサービスの蹉跌

 (株)九州リースサービス(本社:福岡市博多区)は福岡シティ銀行の子会社と見られていた。しかし、実体は当時の代表・元石氏が福岡シティ銀行からの独立を加速化していた時期であった。取引実績を拡大するための手っ取り早い戦略は不動産貸付である。この「協和」にも莫大な融資を行っていた。この会社の倒産によって打撃を受けた九州リースサービスの正常化への道のりには長い時間を要した。この苦闘期に最大の被害を被ったのは榎本重孝氏(福岡地所・元副会長)であった。

信じがたい保全策

 当時、元石社長は気が動転し、冷静さを失っていたのであろうか。宇美町開発物件への根抵当権を融資先・(株)タマイ(仮称)に移動させる画策を行ったようである。破綻する2日前に根抵当権移譲しても損害がなくなるわけでもない。ここで強調したいのは100億円を超えていた根抵当権移譲を受けた経営者の動機である。一度、じっくりと話したことがあった。「お世話になった金融機関に、元石社長に恩返しする気持ちはわからないでもない。でも一体、どういう意味があるのか。貴方の会社がすべて責任を被らなければいけない事態に転落する可能性があるではないか」と詰め寄った。その経営者はただ一言、「恩を返すためだ」と返答した。

 この経営者は「宇美町の物件を開発商品化してビジネスにする」という魂胆と自信をもっていたのであろう。強かな胸算用を練っていたのかもしれない。バブル時代において関係者は「欲の塊」を抱いて独走していた。バンカーたちも金融業務の常識を、枠を逸脱して奔走していたのである。例え話ではない。真実の話である。このタマイの場合、「ピーク時には1,000億円借り入れした」と経営者が豪語していた。この時代のビジネスに従事していない方々には想像もできないであろう。儲けるために商法に触れる類の画策は無数になされていたのである。バブルが崩壊すれば、正常化までかなりの時間がかかるのは必然だった。

 他所から殴り込みをかけて、協和に匹敵するくらい暴れまくったのが末野興産である。この会社にも元石社長が大量融資を行っていた。この会社の場合、オフィスビルを瞬く間に建てていった。会社の行き詰まりとともにテナントとの交渉が大わらわであったとか。このオーナーには、いろいろな武勇伝があったらしい。末野興産から受注していた筆者の親しい建設会社も巻き込まれていく結果となった。

親不孝通り・若者の「踊り狂い」も僅かの期間

 平成バブル時代、「親不孝通り」では若者たちが、踊り狂っていた。まさに「ディスコ全盛の時代」であった。親不孝通りの南側に大型ディスコビルが登場した。91(平成3)年あたりまで若者が群がり、踊りに熱狂していた。この運営会社は冬野観光で、一時は学生たちの憧れの就職先であった。だが、この「踊り狂いムード」は短期間で収まった。会社も倒産した。この西日本一番の踊り場は解体され、若者向けの賃貸マンションとなった。「栄枯盛衰」、ああ無常なり。

 「地上げ・不動産転がし業」が資金繰りに行き詰まり、倒産が続出したのは仕方がないかもしれない。だが、ビジネスの実体においては「虚業・実業」が複雑に絡んでくる。協和の倒産から3カ月後、12月に実需を体現する飯田産業(福岡市)が倒産した。建設資材商社で建設よりも土木業界に強く、土木資材を提供してきた。しっかりとした関連会社も抱えていた。世間では「手堅い会社」という評判を得ていたのであるが…。

 協和と飯田産業の間の手形交換が、商取引であったのか、融通手形であったのか、今でも判然とはしない。裁判は長期化したが、飯田産業が勝訴し、債権者・金融機関にはかなり高い率で配当が行われている。飯田産業の経営幹部に得意先管理のエキスパートの存在があって、プロのブレーンを抱えていたならば倒産することは無かった、と惜しまれる。

 12月、飯田産業の倒産から各企業が身構え始めた。貸出側・金融機関も融資姿勢を総点検し厳しい方向に転じ始めた。90年の年末、熱狂の「疾風怒涛の時代」が去り、事業家たちは、「転落の時代が襲ってくることを覚悟しなければならない」という、強い憂鬱感を抱き始めたのである。

(つづく)

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